今世紀が開けて2つの対照的な新聞記事が目を引きました。1つは下の緑の文字の記事ですが、1月15日付け産経新聞に載った石原慎太郎都知事の「日本よ」と題するコラムで、都の教育委員会にお勤めのN氏がメイルで送って下さった。もう1つはその下に載せた青い字体の1月11日付朝日新聞「論壇」の立岩真也氏の文で「つよくなくてもやっていける」というタイトルのものです。やや極端な議論だと思われる向きもあると思われますが、潜在的には今の日本人を二分する考え方の典型のようでもあります。あなたはどちらをお採りになるでしょうか。

「日本よ」石原慎太郎(産経新聞1/15)
 
新しい年が開け新しい世紀が到来しはしたが、私の気持ちは一向に弾まない。妙な連想だが、今年の元旦正月には、子どもの頃絵本で読んだ、頓智の一休和尚の逸話を思い出してしかたなかった。一休さんは正月が来ると杖の先に髑髏を乗せて、「正月は冥土の旅への一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と唱えて歩いたそうな。
 実際にこの国を巡るいろいろな状況や条件を眺めなおしてみれば、到来した新世紀やこの新年がことのほかめでたいという気はとてもしてこない。たとえば、昨年暮れにアメリカのNICが発表した日本に関する中期の展望報告を日本国民はどんな感慨で読んだことだろうか。報告によれば日本は後十五年もするとアメリカやヨーロッパと並んで世界の三極を構成するような力を失ってしまいその地位から脱落するだろう。つまり世界の三役から幕内に転落し、中国やインドがそれに代わるかも知れないと。それはかねがね多くの識者たちが予感してきたことではあるが、この時点でアメリカの権威からそう指摘されると見たくもないものを改めて見せられたという気にもなるが、それは他でもなくこの自分自身のことでしかない。
 現にもろもろの国際会議の場ではジャパン・パッシングではなしにジャパン・マージナライゼイション(疎外)なるものがまかり通り始めている。日本は反応が遅いから日本を外してことを進めてしまおうという傾向だ。こんな屈辱はあるまいに。
 私はあくまで世界の中での日本の相対的な地位にも執着があるが、その日本を含む世界全体、言い換えれば世界という国際社会を載せたこの地球という惑星の寿命にも大きな危惧をいだかざるを得ない。この今になった私は二十年ほど前に日本で聞いた、あのブラックホールの発見者の物理学者ホーキングの講演を改めて思い出してしまう。講演の後の質問に答えて彼は、「地球ほど文明が進んだ惑星は視認し得るこの宇宙の内に二百万もあろうが、そうした惑星同士の交流が実際にあり得ないのは、そうした星は文明の過剰な発展によって極めて不安定になり宇宙全体から眺めればほとんど瞬間的に崩壊破滅してしまうのだ」と答えていたものだった。あの講演のオブセッションのせいかも知れないが、私に初めての孫が生まれた時その赤ん坊の顔に見入りながらふと、この子がこの子の孫を持つ頃まで人類はこの世に存在し続けられるだろうかと思ったものだった。
 現にこの地球に生息する哺乳類の中で最大の数を持つものは鼠などではなしに、人間である。その人間ばかりが際限もなくふえていきそれを抑制する手だては無きに等しい。そして生命を保障する食糧問題は極めて深刻だ。一方環境破壊による温暖化で向こう十五年の間に地球の平均温度は三度上がり、五十年後には十度上がるという。結果、すべての内陸は広範囲に砂漠化し食料の生産は不可能となる。そうした事態を想定しの国際会議は何度行っても意見の一致は見ず、世界こぞっての対処の方法は依然として定まらない。
トインビーは自ら決定する能力を欠いたいかなる国家も簡単に崩壊するといったが、同じことが地球という惑星についてもいえるはずだ。自ら開発してきた文明が生存に関わる環境破壊を続けているのに、それを自ら抑制できないというのは自分で自分の首をしめているということだ。結果人間は死に絶えカラスやゴギブリだけが生存していても、「存在」に関する意識を持たない、つまり哲学を持たぬ生物だけがこの地球に存在していても、もはやこの地球が存在していることにはなるまり得まいに。というのは自意識をかざした人間の奢りだといわれてもなお、私はこの自分という人間の「存在」こそが証してきた地球という惑星が、折角はぐくんだ文明の故に実質消滅してしまうのをこのまま許す気はしない。
 我々が手掛けてきた文明は我々に未曾有の便宜を提供して来はしたが、一方当然の所産としての自然環境を決定的にまで損ないつつある。物質は循環によって不滅だなどという願望をこめた存在の原理はエントロピーの発見で否定された。例えていえば、焼却による固体の消滅は気化した物質がふたたび良き形で地上に還元されるという期待を、他に転化できぬまま悪しき滞積を遂げるダイオキシンのような事例が否定しかかっている。加えてハイゼンベルグの不確定性原理のように、いかなる研究分析にも必ず限界が存在するという論理は、我々が信じてきた科学なるものの正確性を否みもしている。
 最近の調査では、世界の知識層の意識としては近代文明の存続の予測年数は五十年以内が圧倒的に多いし、その存続への希望年数も孫の時代までというのが最大数となっている。人間はさすがに人間らしく予感すべきものを予感はしているということか。私たちが今共通して持つべき認識とは、この地球があくまで有限でしかないということであり、獲得すべきものはその認識を踏まえた真にグローバルな新しい価値観に違いない。しかしそれを主唱すべき世界の本当のリーダーが目下どこにも見当たらぬ限りで、かつてガガーリンが地球は青かったと宇宙から報告してきた我々の「存在」の舞台が、数十年後同じ宇宙から眺めて褐色に変わっていたという悪夢を私たちは今あながち否定できずにいる。
 となれば、時間は永久に流れ地球という惑星は多分半永久に在るだろうにしても、人間が消滅しその意識の及ばぬこの星の姿をいつか誰が何と呼ぼうかは、もはや私たちには関わりのないことでしかない


「つよくなくてもやっていける」立岩 真也(朝日新聞「論壇」1/11)
誰もが「右肩上がり」の時代は終わったと言う。だがそれにしては騒々しくないか。なにかしなくてはならないことになっていて、「革命」とか「自由」とか、もっと別のもののために使われてきた言葉が気ぜわしげに使われる。「危機」や「国家目標」が語られ、それらに「新世紀」といった言葉が冠せられる。十分に多くの人たちは「消費を刺激する」といった言葉の貧困さや「人間の数を増やす」という発想の下品さに気づいでいる。しかしそうしないと「生き残れない」とか言われて口をつぐんでしまう。政治的な対立と見えるものも「経済」をよくする手段について対立しているだけだ。私たちに課題があるとしたら、それはそんなつまらない状態から抜けることである。

第一には、働き作り出すことは人が生存し生活するために必要な手段であり、基本的にはそれ以下でもそれ以上でもないという当たり前のことを確認すること。まったく言うまでもないことなのに、じつにしばしば、浮足だった言葉の中でそれが忘れられる。それでも労働力と生産が足りないのだから、がんばらざるをえないと言われる。生産につながらない部分にお金を使うのも節約しないとならない、福祉や医療を「特別扱いできない」という話がある。だがまず、刺激しないと消費が増えないなら、あるいは刺激しても増えないなら、その部分は足りていると考えたらどうか。またものはあるのに失業があるということは、少ない人数で多くを生産できるということであり、それ自体は大変けっこうなことだと考えてみたらどうか。ものもものを作る人間の数も足りている、工夫すればこれからも足りると私は考える。「国際競争」の圧力はたしかに無視できない。しかしごく原則的に言えば、それは競争に勝つことで対応すべきでなく、競争しなくてすむ方向で解決がはかられるべきなのだ。これをなんとかできるなら、危機は本当に実在しない。
第二に、一人一人が人並みに生き、暮らせるために、今あるものを分けること、一人一人の自由のために分配することである。たくさん働ける人が多くとれ、少なくしかできない人が少なくしか受け取れないことが正義でないことは論証済みだと私は考える。所得の格差は、格差をつけるとそれにつられてやる気が出るという理由から、必要な範囲でだけ、正当化される。分配の意義はなおまったく失われておらず、それは自由と対立しない。「自由の平等」のための資源の分配が追求されるべきである。失業が問題なら労働も分割し分配すればよい。これは市場だけで実現せず政冶が担うべき部分がある。だがそれは「大きい政府」や「強い国家」を意味しない。
信用されていない人たちが例えば正義を語り、押しつけることが、かえって正義の価値を下げ、信用を低くしている。それは失望と冷笑しか生まない。だから国家は、わるいことをせず、一人一人が生きていけることを妨げないためのことをするのに徹し、それ以外の、様々な「振興策」等々を含む「よいこと」は各自にまかせたらよい。
そうして訪れる世界は退屈な世界だろうか。退屈でかまわないと私は思うが、退屈や停滞という言葉が気にいらないなら、落ち着きのある社会と言い直してもよい。そして退屈になった個々の人たちはすべきことをするだろう。なにも新しいことを言ってはいない。前世紀の後半、環境や資源の危機にも促され、この社会を疑う人たちが現れた。ただその疑いを現実に着地させることが難しかった。生活欄で「がんばりすぎない」ことが言われ、同じ新聞の政治経済欄に「新世紀を生き抜く戦略」がある。それを矛盾と感じる気力もうせるほど社会を語る言葉は無力だろうか。いま考えるに値することは、単なる人生訓としてでなく、そう無理せずぼちぼちやっていける社会を実現する道筋を考えることだ。足し算でなく引き算、掛け算でなく割り算することである。もちろんそれは、人々が新しいことに挑戦することをまったく否定しない。むしろ、純粋におもしろいものに人々が向かえる条件なのである。繰り返すが、この社会は危機ではないし、将来は格別明るくもないが暗くはない。未来・危機・目標を言い立てる人には気をつけた方がよい。

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