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真冬に行く
常夏のフィジィ.
(2)

3日目の朝、バンガローのロビーで細川さんという日本人に会った。彼は57才でここに来て以来15年間も一人でここに暮らしている。彼の家に案内してもらって、生活ぶりを見せてもらった。右の写真は彼のうちのベランダでのショットだが、とても72才とは見えない体格と元気の良さに圧倒された。
彼の家にはインド系の手先の器用なメイドがいて右の写真のような見事な芸術品を見せてくれた。家は自分の土地250坪位の椰子に囲まれた白亜の3階建て。下は現地の人に貸していて、自分は3階の広いところを悠々と占領。南太平洋から爽やかに吹き寄せるそよ風が何とも言えない心地よさを与える。
左の写真はこのベランダから見た南太平洋で、椰子の木の向こうに広がる見渡す限りの真っ青な海を眺めて座っていると本当にパラダイスだと思う。珊瑚礁に囲まれたこの島は外海の荒波が、沖の珊瑚礁が始まる部分で砕けるので、遠くに白波が見え、海岸近くは湖のように水面が静かである。そこには色とりどりの小さい熱帯魚が群をなして動き回る。黒い2メートルもある海蛇も海底に横たわっているのがよく見える。
この白亜の殿堂は細川さんが買ったときは円が安くて、3500万円もしたそうだが、今では1500万くらいで同じような作りの家がすぐ近くに売りに出されていた。やはり太平洋を一望できる別の場所で500坪のとちに3LDKの大きな平屋建てが920万円で売られていた。食費を贅沢しなければ月に3〜4万で済むそうなので、細川氏がここに根をおろしている理由が分かるような気がする。
 このエビ(prawn)は高級レストランで10匹以上焼いてあって一皿1600円位。シーフードは海の中の小島だけあって新鮮でおいしい。しかしレストランにはあまり客がなく、食事時の6時頃から1時間位いても2組くらいしか現れないので、たぶん赤字だと思われる。このエビを食べていた時、フィジィ人のウエイトレスがやってきて日本人だと分かると、日本で雇ってくれる場所はないだろうかと真剣に聞いてきた。ここも雇用の口はなかなか見つけにくく、大変だという。

これからあとの5枚の写真はピチレブ島にあるフィジィの首都であるSuvaで見た植物である。左のアジサイを赤くしたような花や右の
「花の先に花が咲いた」ような2階建ての珍しい花があるかと思えば下のような蜘蛛の足を伸ばしたような
花があり、さすがに熱帯の花は華々しく変化に富んでいると思う。
 下の黄色の鮮やかさも花の大きさとともに圧迫感さえある。
 右下のハイビスカスもよく
見かけるけど、
このようなピンクのものは日本ではあまりないように思う。
結局植物事典を参照する暇もなかったが目の保養にはなった。
 ビチレブ島の南海岸はコーラルコーストと呼ばれ、風光明媚な海岸線が見事だが、その中央付近にこのバラビハンディクラフトセンターがある。いろいろなものが安いのでうっかりたくさん買い込んでしまった。この写真の左の人がここの女主人で生粋のフィジィ人。フィジィの人は根っから陽気で人なつこい人々でBula!(=Hello)と誰彼と無く呼びかける。ゴーギャンがその昔、故国を捨ててこの近くで一生を過ごす決心をした気持ちが分かるような気がした数日間であった。




言霊(コトダマ)信仰
の不思議

 暗記中心の入試が考えない学生を作ったとの批判にこたえようと、何年か前から「小論文」入試というのがかなりの大学で行われている。その問題を読んでいると、ときどきおもしろい文章に出会う。みなさんがもう1度受験する立場だったら、次のような問題にどのようなコメントをお書きになるだろう? 暇があったらご一読を。(健  夫)
 
「中国における権益問題でアメリカと対立した日本政府は、内政に対する国民の不満をそらす意図もあって、対米開戦を決意する。開戦当初、日本はアメリカより海軍力においてやや優位にあり、その優位を維持し戦局を有利に展開しようと、海軍はフィリッピンに奇襲攻撃をかけマニラを占領し、西太平洋の制海権を握る。しかし、生産力に優るアメリカが海上封鎖による持久戦法をとり、中ソ両国も反日に転じ、戦局は逆転する。そして艦隊主力をもって行われたヤップ島沖海戦でも日本は敗北し、アメリカはグァム島など南洋の島々を次々に占領し、日本側守備隊は全滅する。さらにマニラも奪い返される。この間、ソビエトは樺太に侵攻、これを占領し、中国軍は南満州を支配下におく。ついに内閣は総辞職するなか、アメリカの爆撃機が東京上空に襲来し、爆弾を投下する。ここにいたって日本は、アメリカ側の講和条約を受諾し、戦争は終結する」

 これは昭和十六年(一九四一年)から昭和二十年(一九四五年)までの間に、この国で実際に起こったことである・・もしそう言えば、おそらくあちこちで抗議の声が挙がるだろう。事実が違っていると。

 特に傍点をつけたところがおかしい。日米開戦にあたって日本海軍が奇襲をかけたのはハワイであってフィリッピンではない、とか。艦隊決戦が行われたのはミッドウェーやレイテ沖であってヤップ島沖ではない、とか。アメリカ(正確には連合軍側)が行ったのは降伏勧告であって講和勧告ではない、とか。さらに史実に詳しい人なら、ソビエトが侵攻したのは樺太(現・サハリン)だけではない、など気になる点がいくつもあるだろう。しかし大筋においては、まちがっていないことも認めざるをえないだろう。

 実は、これは予言なのである。いやけっして非科学的なものではない。より正確に言うならば、シミュレーションの手法を用いた未来予測だ。問題はこの未来予測が発表された時期である。なんと、太平洋戦争開戦の昭和一六年よりも一七年も前の、大正十三年(一九二四年)に発表されているのだ。

 大正一三年というと、関東大震災の翌年であり、日米関係で言えば、米国議会で日本人移民を禁止する移民法が可決され、ようやく日米対立のきざしが見え始めたころである。第一次世界大戦からは一〇年ほど経過している。しかし、大恐慌(昭和四年)はまだだし、ロンドン軍縮会議(昭和五年)もまだ、満州事変(昭和六年)もまだだから、満州国もできていないし、当然「一五年戦争」も始まっていない。

 それどころかこの年には、幣原喜重郎が外務大臣に就任し、以後日本政府は「協調外交」(幣原外交)路線を採ることになる。その内容は、主力艦建造の比率等において英米に譲り(これが右翼・軍部から軟弱外交との批判を招いた)、社会主義の政体であるためこれまで承認していなかったソビエトを国と認め、外交関係を樹立するというものであった。いわば「全方位外交」であり「軍縮路線」でもあった。こんな空気の中で、この未来予測は発表されているのである。

 予測者はイギリスのヘクター・C・バイウォーターという軍事評論家である。その発表の意図は必ずしも明確ではないが、予測の内容がきわめて正確であったことは歴史が証明している。ところが、私の知る限り、この予測はあまり「有名」ではない。歴史に詳しい人、戦争中実戦に参加した人でも、この予測のことを聞くと知らない人が多い、いやほとんど知らない。おそらく読者も初耳の人がほとんどではないか。

 では、この予測は英米の一部でひっそりと発表され、日本では注目されなかったのか。とんでもない。ただちに数種の翻訳が出版され、ベストセラーになった。ということは、多くの国民・軍関係者にも読まれたということである。それなのに、なぜこの予測は記憶されていないのだろうか。もし、私が「平和教育」をするために歴史の教科書を書くとしたら、まずこの予測から始める。大正十三年の時点で、これだけ正確に予測され、しかも広く知られていたのに、なぜ戦争の勃発を防ぐことができなかったのか。

 国家のダイナミズムというものは、そう簡単に変えることのできるものではない、という反論もあるだろう。しかし、それならば、戦争突入が不可避の運命であると意識されればされるほど、その推移を正確に予測した人も、その内容も、深く記憶されていいはずである。だが実態はその正反対だ。どうしてこの予測は、日本人の記憶の中から消えてしまったのか。おそらくイギリス人なら、教科書の重要項目とするであろうこの事実を。

 読者は、もうお分かりのことと思う。もちろんコトダマのせいである。詳しく説明する必要もないかもしれないが、確認のために述べておく。

 そもそも予測というものは、それが正確なデータに基づいて的確な手段で行われたものならば、本来、中立・公平・無色なものであるはずだ。それが誰によって発表されようとも、その本人や所属する国家・団体の利害とは関係ないはずである。もちろん敵に過ちを犯させるために、わざわざ偽りの情報を流すということはある。しかし、いわゆる専門家が的確な手段によって行った予測を、そういった撹乱情報と混同してはならない。

 そして、このバイウォーター予測について言えば、その予測がきわめて正確・妥当なものだったことは歴史が証明している。しかし、これが日本へ伝えられた時、たちまち起こったのは朝野をあげての反発であった。この予測を冷静に検討し、もし「日米未来戦」が起こる危険性があるとすれば、それを回避すべく対策を立てるべきだ、という反応はなかった。少なくとも主流にはならなかった。

 むしろ「日米未来戦」ブームが起こり、その内容は徐々に「日本がアメリカに負けるはずがない」との内容に統一されていった。中には「このまま戦いを始めれば日本は負ける」という良心的(?)な予測を発表する人もいたが、それも結局、無視されるか、「だから軍備をさらに増強しなければならない」という意見の補強材料にされてしまう。

 予測が予測として冷静に受け取られないのはなぜか。言うまでもなくコトダマの支配する世界では「かく言えばかくなる」ゆえに、予測だろうが資料だろうが意見だろうが、全部「そうなることを望んでいる」と解釈されてしまうからだ。バイウォーターは「日本の敗北(正確には屈辱的講和)を望んだ」と受け取られ、そう受け取られたからこそ、朝野をあげての反発が起こったのである。

 これでは冷静な検討どころではない。うっかり「バイウォーター氏の見方には学ぶべき点が大いにあります」などと言ったら、非国民にされてしまう。そして、その見方を否定する形で、「日米未来戦ブーム」が起こった。

(井沢元彦『言霊・・・・なぜ日本に、本当の自由がないのか

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