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最初1年間の留学のつもりが、折角アメリカの生活に慣れたとたんに帰国するのは残念でもあり、直接のIndianaの指導教授であるKennedy先生の薦めもあってNew York Universityの大学院でさらに1年学びMBAを取って帰国することに変更。その間の夏休み2ヶ月間を、Kennedy先生の両親在住のオハイオ州Clevelandで家族の一員として一緒に過ごさせてもらうことになる。Indiana滞在中お世話になったYelch老夫婦のお宅では食事は1人で外食という約束だったので真の家族の一員という感じではなかった。明は、たとえ2ヶ月でもアメリカ人の家庭の一員として一緒に生活すれば習慣や礼儀も学べると喜んだ。

Bloomingtonを出た列車は午後630Cleveland(Union Station)に着く。嬉しいことにKennedy先生が弟と一緒に出迎えてくださり、車で更に25km離れたエリー湖畔のWilloughbyの邸宅まで案内してくださる。

前面に海のように広がる湖の眺望の中で、先生は両親、兄、弟、妹の6人で暮らしておられる。母親が中心になって全員が自発的に働いて、手伝い加勢しながらの生活は彼には新鮮だった。日本の明の実家では女中3人、下男1人が働き、子供たちが怠慢だったことを反省させられる。しかし明の実家の庭にテニスコートがあったので、幼少からテニスは得意だった。アメリカでも8時過ぎまで明るい夏の夕べをKennedy先生や家族とテニスを楽しむ。明もすぐに家庭の雰囲気に溶け込み、常に気を配って家の仕事を次々と手伝った。

日本からたまに送られてくる新聞には、父の会社、「日本綿花が不況で40人解雇」などと出ているのを心配しつつも彼のエリー湖の休日は続く。丁度バード大佐(Richard Byrd)が南極のリトル・アメリカ基地から南極点までの往復飛行に初めて成功したころで、その記録映画がWilloughby劇場にもかかり、先生家族と見に行く。映画以外に南極を目にすることの出来ない観衆は、彼が飛行機から南極点に星条旗を落とすシーンに魅せられる。そのほか、エリー湖で魚釣りをしたり、夜三日月が湖面に映る湖にカヌーで漕ぎ出したり、近くのEuclid ParkThrillerと呼ぶジェット・コースターというものに初めて乗ったり、近くの小さな飛行場から小型機で34分のエリー湖遊覧飛行(料金1ドル)をしたり...アメリカ人の家族の一員としても思い出深い時間を過ごすことができた。更に一家は明がNew Yorkに出るのに合わせて家族旅行を計画し、2台の車を連ねて一緒に行ってくれることになる。

8/17午前830一行はエリー湖の淵に沿って北東へGirardまで進み、国道6号線に入って東のAllegheny National Forestを抜ける道へ。今までアメリカもほとんど列車で移動していた明は日本とスケールの違う広さと平坦な道路を時速100キロを越えて走る車に乗って興奮する。彼にとっては初めてのアメリカ長距離ドライブだ。標高830mしかないMt. Jewettにも感嘆、Susquehana Riverの景観に見入る。その日は400km走ってCoudersport1泊。次の日も風光明媚な国道6号線の景色を楽しみながら、320kmを走り、Wilkes-Barreに泊。そして3日目の3時頃New York着。Kennedy先生一家と別れ、先生の紹介してくれたRiverside Drive 500にあるInternational House4209号室にとりあえず滞在することになる。

中学1年時の試験中のこと、明の腹部に「瘡」が出来て急に痛み出したので、外科の診療を受けたらすぐに手術をしなければいけないと言われた。

「ではすぐにやってください。明日は学校の試験を受けねばならないので...。」と明。

「それはとても無理だ。二日ぐらいは行けません。このまま入院しなさい」

と言われ、手術後、「ちっとも痛まないから家へ帰してください」と言って、夜遅く帰宅し、翌朝は熱もあるのに学校に行き、思い通り試験を受けたということがあったと母は言う。

実際、この困難にもめげず目的を貫徹するという姿勢はアメリカの生活でも失われず、2年間で2つの大学と大学院から学位を取ることが可能になったのだろう。しかし、Indiana大学時代からの親友で、やはり外国からの留学生だったChrispin Mattaさんは、明の生活を見ていて勉強のしすぎで彼が健康を損ねたと見る。医学志望の彼は早くから明の健康を心配して強く助言したようだ。もちろん明も健康には気をつけていたが、物凄い量の課題を真面目にこなすのは特に外国人にとっては、言葉のハンディもあり、超人的な努力を強要されるという。大変な状況に置かれても学生は両親や友人の期待を裏切りたくはないので、頑張りすぎ、健康を損ねるケースが多いので、Mattaさんは「法外な量の課題を課すのは学生の命に対する犯罪行為だ」とまで言う。Indiana Kennedy先生も「もし大学院もあのままIndianaにいたら、こんな悲劇は起こらなかっただろう。私がNew York行きをアドバイスしたことを後悔している。彼も強く望んだことではあったけれども...」と述べている。

明は、大学院に卒論の概説は提出していた。そして卒論も多分ほとんど完成していたと思われるが、提出する前に亡くなった。しかしNew York University大学院教授会に明の死が知らされると、明の死後でもMBAの授与をしては...という提案が自然発生的になされ、満場一致で学位の授与が決定されたとの通知がTaylor学部長から父に届く。

明はもともと完璧主義で、その上負けず嫌いの性格だった。留学途上の太平洋上の船上でも、外国人にChessを教えてもらった腕で相手を負かせてしまうし、New Yorkで会った日本人とも久しぶりに将棋を指し、勝ったのを喜ぶ。Kennedy先生と隣人を誘ってエリー湖に行って3時間釣りをしたときも、「僕20匹、先生1匹、隣人3匹」という具合。しかし常に相手の気持ちを大切にしてプレイしたようで、よく一緒にテニスをしたKennedy先生の家族も「勝っても負けてもあんなに気持ちよく試合が出来る相手はいなかった」と述べている。

実際多趣味な明はピアノも相当なものだったようだ。中学時代からバイオリンを少し弾く友人とドボルザークのIndian Lamentを合わせたり、ドリゴのセレナーデ、「この道」、チャイコフスキーの「悲愴」なども好んだ。神戸高商時代にも学校関係の音楽会には引っ張り出されて大きなホールでピアノを弾かされていたが、Kennedy先生宅でもショパン、グリーク、パデレフスキー、シューベルトなどで家族に楽しみにされていた。彼の控えめな態度が特に好感を呼んだようだ。

学問的な研究心の一方で、明は非常に合理的、実際的な一面を持つ。かなり裕福な家庭に育ったけれど、アメリカでもかなり倹約した生活をしていた。親友のMattaさんも明から倹約の仕方を教わったという。通信販売が安いと知ると、タイプライターやその他の道具もカタログを取り寄せて細かく吟味して利用した。

Marketingなどの勉強のかたわらで、GMRCAなどの株で多少儲けて、New Yorkに移るときに、その金でシボレーの中古車を買った。Kennedy先生宅にお世話になっている夏休みに車の免許を取っていたので、通学にそのオンボロ車を使って腕も磨いたようだ。彼の実際的な生き方を示す一面だと思う。

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そして大学院が終わったとき、1931(昭和6)66日、親友の松本寅一を誘ってアメリカ東半分を巡る3200キロのドライブに出かける。散々お世話になったKennedy先生を訪問して再度お礼を言いたいし、日米学生協会を発展させたいという気持ちが強かったようだが、自分で運転して自分の思うままに大陸を体感してみたいという気持ちも強かったようだ。

International Houseでのフランス人の友人アッシャー君もCincinnatiまでの約束で便乗。一行はアメリカの美しい山、川、広漠とした平野、トウモロコシや玉ねぎの畑をイヤと言うほど親しんだ。1年前に大学に通ったBloomingtonでは下宿した家のYelchさんとも再会。「明は私の息子。ニューヨークにはやらない。この地にどどまってくれ」と涙を流して引き止められた。Kennedy先生も明の車を自分で点検して一部修繕までしてくださった。それを見ていた松本氏は言うーー「日米親善をいかに声高に叫んでも、後ろに刀を隠しいかに握手をしても一時的な親善も出来ない。秘密のない国民外交、個々の若き前途ある血に満ちた人たちこそ親善を果たす」と。

その松本氏から明のドライブ中のエピソードを2つ。

Cincinnatiでアッシャー君が降りるとき、最初の約束通り、ガソリン代の3分の1をそのフランス人から受け取って別れた。8キロも走ったころ、突然明が

「さっきの3人分担の計算は間違いで、外人から25セント余分に取りすぎている」と言った。今度会ったときでもいいじゃないかと松本が説得するのは聞かず、早速引き返し、その外人に会い事情を説明して返済したそうだ。

また、New York州Port Jervisに着いたとき、車が故障して近くで修理を頼んだ。その修理が10ドルで、たまたま小銭がなく50ドル札を出したら、その修理工が「今はつり銭がないので、New Yorkに帰って小銭が出来たら送ってください」とこちらの名前も住所も聞かないで別れた。明はこの修理工の言葉にとても感動し、

「一労働者なのに旅行者を大胆にも信頼する。我々は相当教育を受けていてもまだ人を完全に信頼することができないのは慙愧に耐えない」と言って、ニューヨークに帰着後12ドルを送ったそうだ。

実際家の反面、異国にあっても和歌を作って楽しむ風流者でもあったようだ。

次の2首はニューヨーク時代の友人が記憶していて死後寄せてくれたもの。

日の当るサイドウォークを毬一つころがり来るも我の行く手に

まろび行く毬見やりつつ高窓に赤き娘ひとり笑いいる

明の死後、生前彼と接触のあった内外の人たちから多くの追悼のことばが寄せられた。死人を悪く言う人は少ないけど、それにしても彼の死を悔やむ人は多い。

「いかに思慮を練っても、彼の崇高なる人格、広汎なる趣味、溢るるごとき純情は到底記しうるものではない」

「家庭的な関係において、性格において、志向の自由さにおいて、富において、全ての環境に恵まれながら、しかも年若くして、異郷に寂しく病み、寂しく逝った友の生涯は、その最後があまりにも思いがけないものであっただけに、私には何だか美しい悲劇のように思われる。そしてまた私自身にとっては、見果てぬ夢から急に覚めたあとのような気持ちがする。そうした気持ちのほろ苦い後味をかみしめつつ、何処かの隅に隙間が出来たような自分の心を見つめる...」と記す親友。

一方外国人の友人の1人は、彼はユーモアのセンスがあるという。明は自分の失敗を笑うことができた。ある彼の米人の友人が年配の女性と話しているところを見かけた明が「お前の彼女を見たぞ」とからかい、そのあと会ったときからの挨拶が"How is your girl?"となったそうだ。

明が一番お世話になり、尊敬もしていたKennedy先生は、明をずっと気遣い、勉強のし過ぎによって健康を損ねることを心配していて、夏休みに自宅へ呼んで夏休みを2ヶ月間も一緒に過ごしたのは、明の体重を増やし体力をつける目的があった。先生は明を失った気持ちを、ギリシャの詩人カリマコス(Callimachus)が親友Heraclitusを失った悲しみを詠った詩に託して書いている。

And now that thou art lying, my dear old Carian guest,

A handful of grey ashes, long, long ago at rest,

Still are thy pleasant voices, thy nightingales, awake;

For Death he taketh all away, but those he cannot take.

あの世へ逝ってしまったわが愛しい客人よ

お前は、もうずっと一握りの灰色の遺骨になってしまった

しかし、お前の快い声は聞こえ、美しい歌声は未だに(私の心を)呼び覚ます

死の神はお前の全てを持ち去ったが、その声は奪えない。

夏休みに明を招き、ともに過ごしただけのKennedy先生の両親も

We still hope to meet Akira again, in a world where sorrow never enters. (私たちは、こんな悲しみが決して入り込んで来ないあの世でまだ明に会いたいと思っています。)

とまで言っている。

確かに人生50年と言われた時代ではあっても、24才での死という人生は短い。しかし親友の1人小島豊がいうように「凡々としていたずらに長い生涯を送っても達することが出来ない教養と人格とを、君はこの短い生涯において完成し終えられた」と見ることが出来るかもしれない。またニューヨークの葬儀のときの日本人牧師大堀氏のように、やや大げさだが、海外留学生がまだ少なかった時代では、「わが国の発展の中で重大な任務を背負わされて異国で逝った戦死者として考え、慰むべきもの」というような考え方をする人もいた。

アメリカでも人間発電機(Human dynamo)と言われて精力的に生きた一方で、He made a warm place in the hearts of those who know him.(彼を知る人の心に何か暖かい場所を作り出す)ような人だったらしい。Kennedy先生は明の死に際しても、その父を「祝し」We must congratulate you on having had a son who represented the finest things that Japan or any country has to offer.(日本や世界の国々が生み出せる最高の資質を備えた息子さんをお持ちだったことを祝福申しあげたい)と言う。<終り>

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