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10/8()
 快晴だと思って、近くのサンクト・ヴォルフガング(Sankt Wolfgang)の湖に行ったら、霧がかかって何も見えない。やむなく有名なヒットラー山荘があるベルヒテスガーデン(Berchtesgadenへ。カーナビ(GPS)をセットしたら、最短距離の田舎道を知らせてきた。山の中の細い道。道路のふくらみのあるところを選んでやっとすれ違う。右側通行で中心線もない道路だから、右によけることをとっさにやるのが結構大変。やっと広い道路に出た。あと目的地まで3キロ。前方にゲンコツをふりあげたようなゴツゴツした岩山が、我々に覆いかぶさるように迫ってくる。岩の隙間に雪が固まって張り付いているのが霜降り肉の脂肪のように見える。この先にケーニッヒ・ゼー(Konig Seeという湖があるはず。案内所があったので、尋ねて湖水に面したホテルを探してもらう。ベランダから湖水を一望できる最高の部屋で1人朝食付きで45ユーロだという。詳細な地図をもらって進行。まるで歩行者天国のような石畳の道を人をかき分けながら、教えられたように車で湖畔の宿まで直行。ホテルは歩行者道路の脇に専用の駐車スペースをもっている。このあたり一帯はオーストリアの西南にドイツ領が突き出した場所で、ドイツの国立公園の中だ。
 湖畔はたくさんのペンチや白いペンキのテーブルと椅子が無数に置かれ、ほとんどが老人の観光客でただぼんやりと日光浴。日本人や中国人は一人も見当たらない。目の前には静かな深緑の水をたたえた湖が遠くまで広がり、対岸の山はすでに晩秋を思わせる紅葉がすすむ。その山の上には、先ほどの霜降り肉のような岩山が連なり、天を突き破る勢い。しかし静かだ。もちろん日本の観光地によくあるスピーカーの音などまったくない。その広場に面して、木造4階建て切妻屋根のロッジがある。湖に面した各階のベランダには赤いグラジオラスが豊かに彩りを添えている。その3階の真ん中が我々の部屋。 
 日差しも柔らかく澄んだ空気が広がる。湖上の遊覧船に乗ってみる。牧歌的でフィヨルドのような深い色をした湖上を船は滑るように進む。音がしないように配慮した電動ボートだ。黒味がかった緑の上に巨大な筆で茶色や黄色を塗り重ねたような山々に取り囲まれて奥へ進むと、更に見えないところに水路が開ける。山を覆う紅葉が水に逆さに写り、かすかな波に揺れる。何か印象派の絵の原点を見るようだ。紅葉に彩られた山の背後には、マッターホルンのように天に突き出したコブシのような岩山がギザギザのスカイラインを作る。大自然の息吹がもろに伝わってくる。突然ボートが停止した。静寂。見ると船頭が窓を開け、トランペットを持ち出して、ファンファーレのような曲を吹き始めた。目の前には高く突き立った黒い垂直な山。乗客は一斉に窓を開けて、かすかに返ってくるエコーに耳を澄ます。トランペットを断続的に吹くと、エコーと会話をしているような感覚。みんなの喝采を浴びて、船頭は帽子を回す。何人かがチップ入れる。英語の説明がほとんどないので私は入れない。やがて対岸のバーソロミュ(Bartholomew)教会の近くの船着場に到着。
 10月のヨーロッパは寒い。もう旅行シーズンは終わった空気だ。だから、ここでも夕方7時にはほとんどの店が閉まってしまう。6時ころでも昼間歩行者天国の通りに人影があまりない。隣のホテルの食堂が安くて感じが良かったので入ろうとしたら、そのホテルの団体宿泊客を賄うだけで手一杯だと断られてしまった。脇のビアホールに入ったら、我々を見るや、奥の方でドイツ人の若者が数人ジョッキを持ち上げて、我々「奇妙な外人」のために乾杯をしてくれた。しかしそこは料理の店ではなかったので、別の店に入った。我々以外にお客は居なかったが、やがて地元の若夫婦と子供連れが隣に座った。子供は隣の「外人」が気になるらしく、食事中たびたび我々の方をじっと伺っている。更に近くの席に地元の老夫婦が来た。何か話したそうなので、明日行くところについて聞いてみる。ヒットラーの山荘「鷲ノ巣」(Eagle’s Nest)は面白いところだという。「今は頂上近くまで登山道も完備していて、景色もいいから是非歩くといい」とアドバイスしてくれた。それからすぐ近くのイエナー山(Mt. Jenner)までロープウェイがあるから行ってみろという。私が言うのも変だが、たどたどしい英語で何とか分からせようという熱意が伝わってくる。表現の仕方は違うが、子供も大人も「外人」に関心をもっている人が多いのはどこも同じだと思う。

10/9(木
朝霧が一面にかかっている。9時になっても晴れない。ロビーに行って「ヒットラー山荘に行きたい」と言ったら、ドイツ人が「11時になったらきれいに晴れるからEagle’s Nestは壮観な景色がみれるよ。アドルフ (Hitler)はいないがね」と言って口ヒゲを吊り上げるヒットラーの動作のまねをして笑った。10時前になり霧が少し薄くなったので、出かける。岩山の中腹にナチスの地下兵器庫跡があり、その傍に「ナチス文書館」が併設されている。そこまでは車が入れるがすべての訪問者はそこで駐車場に車を入れて、シャトルバスか徒歩で頂上近くまで行くことになる。駐車券の自動販売機がわきに小さく立っている。以前やはりドイツで駐車券をダッシュボードに置くのを忘れて駐車違反を貼られたことがあり気になった。しかしドイツ語だけの券売機で、値段がいくつも書かれていて、どれだかよく分からない。隣にいたドイツ人の助けを借りて何とか処理。トイレをすませようとWCのマークを追っていく。階段をいくつか上り、通路の置くまでかなり歩く。入り口の横でケーキを売っている男がいて、「トイレは?」というと「50セントだよ」という。ちゃんと領収書までくれてやっと入る。
 山頂近くのイーグルズ・ネスト(ヒットラーの山荘)までのシャトルバスに飛び乗る。オフシーズンなのにほとんど満員。バスはすれ違い不可能な狭い急坂をすごい勢いで登る。途中に特別に作られたすれ違いの場所があり、タイムテーブルに従ってそこで退避して下りバスをやり過ごしてから又頂上まで進む。バスの片側には壮大な風景が展開する。青空の下に遠く、雪を抱いたアルプス。その前に広がる緑の谷間に点在するカラフルな民家、濃い青の湖。その上には小さな綿のような雲。空中の楼閣に行くケーブルカーにでも乗っているような気分。途中の説明はドイツ語と英語だが、とてもクリアな音で分かりよい。ヒットラーが自分の50才の誕生日に13週間の短期間で作らせたプロジェクトだったという。山の端の断崖を削って作られたバス道路が限界まで来て、これ以上は無理だと思われるところにバスがUターンできるだけの広場がある。しかしここは高度1800mで岩山の頂上までまだ135メートルある。そこでヒットラーが考えたのが、その岩山の中央に頂上から竪穴を掘り、その中に専用エレベータを設置するということだったという。観光客はまず脇の岩山に水平にトンネルが掘られた横穴を120メートルくらい進み、岩山の中心から頂上に直結する大きなエレベータの前に到達。エレベータの内装は金ピカの真ちゅう板で、側面に固定された複数の大きな鏡が乱反射して、豪華ホテルのロビーにいるような気分。それに乗って残りの130メートルを上がると山荘の中に出て、いきなり視界が開ける。1935メートルのケールシュタイン(Kehlstein)山の頂上に乗っかった大邸宅は、ワシかタカくらいしか到達不可能。ここに、ヒットラー(というワシ)はムッソリーニを初め外国の要人を誇らしげに招待し、威圧しながら会談をしたのだろう。彼の自伝「わが闘争」(Mein Kamph)もここに引きこもって書かれたという。邸宅は今ではレストランになっていて、ヒットラーの使ったものいえば1938年と掘り込まれた暖炉くらい。でも外に出ると彼が独占していた先ほどのものすごい景色が一望できる。しばしこの天上人だけが見る広大な眺望に誰も圧倒されて、懸命にカメラのシャッターを切りまくる。ちょうど12時。屋外の絶壁のわきにある椅子に腰掛けてグラーシュ・スープを注文。景色の味付けも加わり、爽快でうまい。ここにいると下界が小さく見え、自分が天人のような感じがしてくる。周りの霜降り模様のゴツゴツした岩山は天をぶち抜く巨人のゲンコツのようで、世界を制する勢いのヒットラーの心情と呼応するような気がする。ヒットラーの気持ちを象徴的に理解するには最高の場所でもある。
 再び中腹のオベルザルツベルク(Obersalzberg)に戻る。ここにはヒットラーの「文書館」(Documentation Center)があり、あらゆる場面のヒットラーの写真とドイツ語解説が展示されている。2ユーロ出して英語のオーディオ・ガイドを借りる。子供達や女の子の歓声を受け、やさしくかわいがる若き日のヒットラーの姿、寝坊のパジャマ姿でとぼけたヒットラー「人民の宰相」として人気者だった彼が、連立政権で実権を握ると反体制派に対する弾圧を始め、「抵抗勢力」を捕らえては収容所に入れて強制労働に駆り立て、抹殺する。更に諸国の要人をよんで「協力しないとお前の国を潰すぞ」と脅迫しながら、世界の独裁者になっていこうとする過程を細かく検証している。本来この展示は、ドイツ人が自国の近代史を学ぶ目的で作られた。ナチスとヒットラーの問題はずっとタブーで避けられてきたが、やっと90年代の終りになって、国民にとって不快な歴史も国民が知ることの重要性が認識されてきたとのこと。ヒットラーを選んだのも結局は国民だったのだ。
 この文書館の地下に1943年に形勢不利になったヒットラーがあわてて強制労働で作らせた大地下壕(bunker)がある。6kmにも及ぶ地中の司令部。当時は多数の会議室、文書室、幹部の「豪邸」などがあったらしいが、今入るとコンクリートで固められた大きな長い地下室が鉄の格子戸で仕切られた空間で、当時の面影はない。かつての会議室だったかと思われる広間で、ナチスの記録映画をやっていた。ガス室の外に山積みされた死体を、まるでゴミでも処理するように、硬直した両手両足を2人でつかんでトラックの荷台に放り投げていく場面などをドイツ人が目を凝らして見ていた。
 湖の近くまで下山。イエナー(Jenner)山のふもとの山荘のようなレストランで食事。丸太小屋の外側に牧草地があり、数頭の白やこげ茶のヤギが牛などと一緒に放たれている。見ると小さな金髪の女の子が白いバケツを持って出てきた。羊たちも「夕食」の時間のようだ。エサの入ったバケツをねらって、ヤギたちが女の子のあとを追いかける。女の子はじらしながら逃げまわる。倒れた巨木があり、その上に駆け上がった女の子がバケツを枝にかける。一匹のヤギが追いかけてのぼり、やっと食事にありつくなどという風景をボーっと見ながら、我々もビールやワインでアルプスの食事を楽しむ。ヤギの群れの脇には太い丸太で組み立てた小さなヤギ小屋がかわいい姿で立っている。屋根もきちんと葺いてあり、大きな重石がいくつも積まれている。ヤギが入口の木材にかじりついて、懸命に歯を研いでいる。<このページ上部へ移動>

 


10/10(
 
オーストリアの真ん中、北のチェコに近いところにこの国第3の都市リンツがある。そこから20km東のドナウ河に沿った町マウトハウゼン(Mauthausen)にもナチスの強制収容所がある。どこまでも緑の丘がゆるやかに波打つ風景が続く、のどかで実に美しい地域。その丘陵の一角にある高いレンガ壁の、見張り塔が突き立つ施設。アウシュビッツのような単なる「殺人工場」ではない。背後の山にある豊富な石材を切り出し、人力で運び出させる強制労働のための収容所だ。欧州のあらゆる国でナチに反対して捕らえられたインテリが集められ、栄養失調に耐えながら、切り出された重い石板を背負って長い石段を運んだ。重さに耐えられないと即座に銃殺。犠牲者は少なく見積もっても12万を越える。後に収容所の規模はふくらみ、弾丸、地雷から戦闘機組み立てまでをこなす「工場」としては欧州最大のものになった。しかし事実上の殺人工場に近い施設であることは確かだった。 
 ドイツ国内で反ナチを唱え収容された人たちを含め、多くの国々から収容された犠牲者に対して、その遺族や同情者たちが、収容所の前に大きな碑を作った。犠牲者の写真の周りには花や飾りを置いていく。アラビア語や中国語の追悼のことばなども刻まれている。病弱で使い物にならなくなった者が送られたガス室、焼却前に金歯などをはずした処理台、その横に並ぶ死体焼却炉。とくにその付近は壁一杯に犠牲者の写真が氏名、誕生日、死亡日のメモと共にピンで留めてある。みな壮々たる若者たちだ。
 ただ殺すことが直接の目的ではなかったから、アウシュビッツと違って、教会堂なども広いし、何人も詰めて寝させるための斜めになったベッドなどもない。ロッカーもあり、食堂、トイレなども比較的ましだ。しかしアウシュビッツと違ってここでは入場料2ユーロを徴収する。またアウシュビッツほど知られていないためか、訪れる人もほんのわずかで閑散としている。
 この場所から車で5分も下ると、ドナウ河の河原に出る。上の陰鬱な施設とは対照的に、全長2700キロにも及ぶ大河で最も「美しく青きドナウ」らしい部分が続く。正確にはこの先下流50kmのところにあるメルク(Melk)から更に下流のクレムス(Krems)までの40kmが最高だと言われる。明日のクルーズが楽しみ。メルクの案内所に行って「ドナウ河の近くの宿がないか?」と聞いたら1軒だけあるという。大抵の人は駅近くの旧市街のホテルに泊まるようだ。ドナウの宿を探して行ってみる。船着場の近くの1軒だけある古いレストラン付属した別棟だった。各ユニットが新築の2DKで自炊用の台所や鍋、食器付きなのに1人朝食付きで27ユーロだという。早速スーパーで野菜と肉を買ってきて作ろうということになった。スーパーの近くに公園があり、皆が駐車しているところがあったので、そこに駐車。20分ほど買い物をして出てきたら、窓に駐車違反の通知書が挟まっていたようだ。というのは既に夕暮れになり、それに気がついたのは次の朝だったからだ。翌朝、昨夜と同じような場所にとめようとしていたら、そばの建物の4階の窓から英語で「時計! 時計!」と我々の方に大声をあげている女性がいる。何のことかよく分からず、呆然としていたら、「ちょっと待って」と言って引っ込んだ。やがてドイツ語で「Ankunft 9:15(915到着)と走り書きした紙を上から落としてくれた。それをダッシュボードの上にのせて行けという。まわりの車のダッシュボード上には、針が自由にまわる紙製の時計板が置かれていた。駐車を始めた時間を紙時計で合わせて車を離れることになっていたらしい。その女性は、我々に紙時計がないので、気を利かせて車の到着時刻のメモを書いてくれたのだった。この時計を見てお巡りさんは長すぎる駐車を取り締まるのだろう。昨日の駐車違反の理由がやっと分かった。それにしても、町によっていろいろのやり方があり、初めて行ってすぐに適応するのは大変だ。宿の人にドイツ語の通知書を読んでもらうと結局20ユーロの罰金であることが判明。「罰金としては最低の額だよ」と慰められた。たまたま週末だったので、次週にウィーンの銀行で支払った。送金料を入れると24ユーロの失敗経験だった。

10/11(土)
 朝は霧。港の宿(Fahrhaus Jensch)からはドナウ河が見える。ベートーベン号という白い大客船も着岸。しかしもうオフ・シーズンなので、メルクからクレムズに行くドナウの観光船は11本とのこと。それも13:50発。今晩もここに宿泊予定なので、クレムズからの帰り方を宿に聞く。バスがあるという。午前中は近くのメルク修道院見学。7.5ユーロで撮影自由。説明は小さな英語もあるにはあるが読みにくい。フラッシュはダメのよう。フロリダから来たアメリカ人がCanonのデジカメを見せてフラッシュが光らないようにしてくれという。日本製なので日本人が教えるのは当然と思っている感じ。それでもO君すぐ直す。修道院といっても、王宮のように装飾が豊か。特に礼拝の大聖堂はバロック様式の細かい装飾が祭壇、壁、柱、天井、背後のオルガンなどの周辺に綿密に施されている。しかし不思議なことに正面の祭壇上や側面にも十字架のキリストはない。マリア像もない。庭園も開放。脇には小さな森もあり、聖歌隊の音楽がどこからか聞こえてくると思ったら、林の中に隠して置かれたスピーカーからだった。庭園の中で7~8人のドイツ人グループが写真を撮っている。全員を撮ってあげようとカメラマンを申し出たら、喜ばれた。
 ドナウ河クルーズのチケットを買いに行く。切符売り場(Box Office)は閉まっている。やがて売り場担当者が現れる。2つの会社が競って同じ時間に配船しているので、チケット売りに熱心。でも片道18ユーロに燃料サーチャージまで別に1ユーロ取られて19ユーロ。2人分38ユーロを払おうとして100ユーロ札を出したらお釣りがないという。仕方なくカードで払う。最初は、船乗り場には10人程度の列が出来ていただけだったが、出航間際になって、ドイツ人らしい老人の団体がワッと乗り込んできて船のデッキの椅子がほとんどうまってしまった。向かい合った座席の間にはテーブルもあり、飲み物のメニュもある。この辺りはライン・ワインの中心地でもあるので、白ワインを注文。甲板の風にあたりながら、ドナウの両岸の斜面に広がるブドウ園を眺めて、ワインを賞味。しかしどんよりと曇った空は気分を沈下させる。でもここはドナウの中で、もっとも美しい区間だという。確かに両岸の山や岸辺に何度か現れる古城は緑に囲まれ、赤や黄色の屋根や壁が緑の中に埋まっている。でもこの時期は午前中は大抵濃い霧がかかり、視界もほとんどきかない。だから午後晴れることを期待して午後に観光船出発が集中する。実際、船が出発して40分も経ったとおもわれるころ、青空が顔を出し始め、急に暑くなった。同時に周りの景色も、ぼけた黒白写真が突然「天然色」になるように、生き返った感じになった。船上も活気が出てきて、若い人たちが声をあげ始めた。立ち上がってまわりの景色をデジカメにおさめる人、友人、恋人と肩を並べてシャッターを切る人たち。我々の前にあったワイングラスもいつの間にか空になっていた。船が途中のデュルンシュタイン(Durunstein)に着くと、ウィーンから来た日本人のカップルが降りていった。ウィーンのホテルに滞在して、日帰りで近くの観光地をまわっているという。切符やホテルの手配はすべて旅行者がして、綴じてある切符を順番に使っていくことで、旅程をこなしている。そこを出た船はまた曇ってきた終点クレムズ(Krems)に到着。
  さて帰りのバスは? というのでたどたどしいドイツ語で聞いて探す。船着場からかなり離れた道沿いにそれらしいのがある。だが、わがメルクへ行くバスは1日に何本もない。週末は特にすくなく、日曜日はゼロ。今日は土曜日だが、午後1時前後で最終バスがすでに発車していた。仕方なく、今度は鉄道の駅へ。20分も歩いてやっとたどり着く。切符売り場に行くと、メルクからドナウの対岸にあるエマードルフ(Emmersdolf)というところなら10分後に出るという。窮地に救いの神が現れた気持ちで飛び乗る。ローカルの単線で各駅停車。バスなら40分くらいの距離を1時間以上かけてゆっくり進む。しかし、今来たドナウを北側の斜面から見下ろす位置を走るので、又別の角度からドナウの風景を観察でき、近くのブドウ畑の様子も手に取るように分かる。ブドウの葉の色もきれいに見える。鉄道から見下ろすと、すぐ下に自転車道路が走り、その下に自動車道路、ドナウ河の順で平行線になっている。すばらしい場所だけに、体力があれば、サイクリングも悪くない。
 エマーズドルフ駅に列車が着く。ドアの取っ手をグルッと回してドアを開け、ホームと反対側の地面に降りる。切符は車内で点検してもらっているので、改札は不要。地図では4.6キロ歩くとメルクへ着くはず。もちろんタクシーなどない。最初はまだ明るい夕方の風景だったのが、しばらく行くうちにあたりは真っ暗になった。ところどころ外灯があるところだけがポッと明るいが、他はすべて真っ暗。道路の標識もよく見えない。それに寒い。自動車道路の脇の歩道で巾のあるドナウ河を渡る。1時間近く歩いただろうか? やっと暗闇のメルクに到着。岩山の上に乗っかる修道院のライトアップがきれい。帰ったら部屋にヒーターが用意してあった。

10/12(
 
英語があまり話せない中年の女主人ということもあるが、こちらの名前も国籍も聞かず、パスポートの提示も要求もせず、別棟の鍵を渡してくれて、2日間自由に過ごした。チェックアウトをするために、本館の食堂でやっと女主人を見つけ、宿代を払う。笑顔でAufwiedersehen!(さよなら)…支払いもせずに消えられても分からないのに、こちらを信頼しきっているというのか、不思議な人たちだ。もともと船着場に作った食堂だったようだが、横にペンションも最近建てることを考えたらしい。食堂は古く、骨董品がいっぱい並べられ、魚拓や大魚、変った鳥などの剥製や陶器が天井や壁に張り付いている。この100人くらい入れる食堂がほとんど予約でいっぱいになることもある。船着場に着く観光船から降りてくる団体客がここで食事をして、待機しているバスに乗り込み、観光を再開するには最適の場所と条件を備えている。ほんの2,3人で100人分の食事をさっと用意してしまうのだから、これも不思議。
 昨日のコースを今度は車で道路からドナウ川遊覧としてメルク(Melk)からクレムス(Krems)まで車で下る。昨日船で行ったルートに平行した沿岸の道を走って、車から眺めるのも悪くない。例によって次第に天候も回復してきた。あっという間にクレムスに着く。昨日あれだけ苦労して逆のルートを辿ったのがウソのよう。やはり交通の便の良くない地方ではレンタカーの威力は大きいのを実感する。
 しかし、帰国後自宅にドイツから郵便が届いた。ドイツ語だけでよく分からなかったが、スピード違反の通知だった。ドイツのベルヒテスガーデン(Berchtesgaden)からオーストリアへ抜けるときに通ったマルクトシェレンベルク(Marktschellenberg)という小さな町で監視カメラに引っかかったらしい。ちゃんと写真まで添えてあり、運転手の顔もはっきり拡大してある念の入れよう。街中なので時速制限50kmのところで74kmで走ったらしい。でも誤差の可能性3kmほどを引いて71kmで走ったことにして21kmほどオーバーというのもドイツ人らしい細かさ。それで罰金50ユーロだった。早速送金手数料のほとんどかからないCitiBankから振り込んだ。金融危機で1ユーロ119円ということで5977円の勉強代だった。これは違反現場で捕まったわけではないので、レンタカー会社を経由して届けられた。このため会社への手数料も18ユーロ取られたが。レンタカーは便利だが、勝手が分からない土地ではいろいろリスクもある。
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