![]() 「(シアトルの海)ピューゼット・サウンドを見たるときは、(アメリカは)誠にきれいな国と考えたが、このフォートワースに着いてからは、実に無味乾燥、何ら耳目を楽しませるものもなく、ただ広大無辺の農業国との感想のみ...。なるほど日本での事、時折思い出しては、いかにもアメリカは窮屈千万。アメリカなまりに通じない小生は会話が時折困難。殊に来着の始めは、ムンバイ以上の暑さ、それが済んだら今度は長雨、不愉快な気候を辛抱すれば楽しみでもあるものならまだしも、事実は綿は上がるし、商売はなし。本当に何たる不運かと思うの念、頻りだけど、日を経るに従って、これまで嫌だと思ったことが、耳に慣れ、目に慣れ、次第に米国風の良き点などを見いだすようになる心地がする...。」 さらに50日滞在後テキサスを旅した感想。 「どこに行くにも広い国だ。山なんぞ、見たくても、ない。所々に町はある。町と町の間は何もないといっても然り。この荒漠たる原野には、未だ開かず草ぼうぼうと生えたままで捨ててある土地が中々多い。耕作地には小麦、綿花、トウモロコシや果樹が植えてある。不耕の地には牛、馬、豚などが無数に飼ってある。 この原野でありながら、いわば田舎でありながら、電信や鉄道の交通機関はもちろん、ガスや氷など、僕らからみるとゼイタクと思う程に完備している。例えばニューヨークの綿相場など、どこに行ってもすぐに分かる。町と名の付くところは大抵新開地のせいでもあろうが、道幅広く、コンクリートで固めてある。自動車はどこにでもある。それに乗って広々とした原野の、西側に樹木の植えてある広い道を疾走する愉快さはとても日本ではみられない。」これを読むと100年前のアメリカも現代の風景とあまり違いがなさそうだ。 ![]() 当時は「禁酒法」の前の時期で、もう州によっては実施されていて酒好きの彼には良い試練だったようだ。曰く「米国は表面七面倒な国で、裏面は暗黒。都会はもっとひどい。坊主(牧師)の勢力が存外にえらく、州によっては妙な法律がある。テキサスでは9:30pm後は酒をどこでも売らない。オクラホマはDry Stateで一切の酒類は売らぬ。食堂はどこでも氷水で皆がノドを鳴らす。不規則な生活にはならぬ。」 彼は人と対話中や会議中でも突然眠るという奇癖があり、鼻も悪いためイビキがすごかったらしい。テキサスでも医者に鼻を洗ってもらっていた。オクラホマ滞在中、南40マイルに そのころ既に日本は年間200万俵(1俵180kg)の綿花を消費していたが、ほとんどをインド、中国からの輸入で、アメリカ綿は40万俵にすぎなかった。しかし最初にアメリカとの取引を始めたのが「日本綿花」で、当時テキサス州フォートワースに米国本部を置いていた。それでも40万俵という量はテキサス、オクラホマの総生産量の1割だった。「日本綿花」は大型汽船2隻を雇い入れて1隻に1万俵を積んでテキサス州ガルベストン港から大西洋を横断、地中海、スエズ運河、インド洋経由で日本に運んだ。この運賃が60kg当たり1ドル35セントで、これはインド綿を日本へ輸入するときの運賃の4倍だった。たまたま翌年の1914年にはパナマ運河の開通が予定されていたので、彼は招かれたフォートワースの商工会議所総会で、350人の関係者を前に大演説をぶった。 「・・・今非常に興味深き重要事件が諸君の目の前に展開されております。それは他でもありません、『パナマ』運河の問題であります。換言すれば、東洋との水路に近道が出来ることであります。これによって我日本とテキサス州間の距離が短縮する結果、運賃が安くなるのは勿論、久しからずして、米綿を満載した日米商船が太平洋を往来することになりましょう。それにつきまして今より予め諸君のご一考を煩わせておきたいことがあります。それはこの運河の開通によりまして、単に綿花のみならず、およそ何品にかかわらず、東洋との貿易に絶好の機会が生まれることであります。従来アメリカの対欧貿易は随分巨額に上がっておりますが、東洋との通商に至っては、このテキサスの人士からもとかく閑却せられているのを遺憾と考えます。本運河開通を機会に米日両国ともに義務として充分この辺の事情を研究し、直接通商の途を開きたいものと希望します...。」 ![]() これはその演説のごく一部だが、その翌朝には地元紙Fortworth Star TelegramやFortworth Record、それにDallas Morning Newsなどが彼の演説を、中には写真入りで報じた。実際その2年後には日本との貿易は飛躍的に伸びて、一時 "Johnson grass, Jitney and Japs are taking the country (Texas). (テキサスにはびこるのは、雑草、白タク、と日本人だ)と言われたほどだ。 ![]() アメリカの旅はその後ニューヨークへ移動し、そこから当時の最速巨船ルシタニア号で5日後にはロンドン、さらにフランス南部のマルセーユへ抜けて、インド・ムンバイへ。3ヶ月間インド各地を動き回り、エジプトから欧州を回ってシベリア鉄道経由で帰朝したのは翌大正3(1914)年6月27日であった。 大正5(1916)年、「日本綿花」は羊毛の取扱は着手していなかったが、彼は将来必ず毛織工業は発展すると見込んで、私の祖父(大岡破挫魔)を南米に送り込んだ。当時南米東海岸にはドイツの武装船が出没して連合国の汽船を脅かし危険だったので、祖父はニューヨークから完成間もないパナマ運河経由で南米西海岸をチリに下り、アンデス山脈を越えてアルゼンチンに急行した。ブエノスアイレスに到着するやいち早く羊毛を買い付け、ウルグァイ国産の羊毛にも手を付けた。このようにして買い取った羊毛数千俵は大阪商船の直行船で日本輸入の先鞭をつけた。日本の毛織会社は毛布その他の軍需品![]()
|
![]() 大正6(1917)年、社長のS氏が突然辞任し、重役会互選で喜多が社長になった。欧州大戦中の余沢を受けて日本綿業界は意外な大活躍を演じ、年取引も2億円(今の2000 ![]() 大正3(1914)年から続いた第1次世界大戦も、戦死者800万、負傷者2200万の惨禍を残して、大正7(1918)年11月に休戦になった。大戦に連合国側に加担して中国山東省や南洋諸島でドイツ軍と戦って攻略した日本は、世界5大国の一員としてドイツと平和条約を締結すべく、パリに全権一行を送ることになった。西園寺公望侯を筆頭に全権委員5名を任命した政府は随員として実業界から4名を選んだが、その1人が当時42才の関西実業界代表として選ばれた喜多だった。彼以外の3名は近藤康平男(日本郵船社長)、福井菊三郎(三井物産取締役)、深井英五(日銀理事)。 ![]() 任命を見たのは12/3。一行は12/7には天皇との陪食の栄に浴し、12/9には天洋丸で横浜から米国へと船出。船上でも重要な打ち合わせに忙しく、12/26にサンフランシスコ着。米国政府提供の特別列車でニューヨークに着いたのが12/31。除夜も元日もなく、1/8にイギリスへ向かう英船カーマニア号は悪天候でノロノロ航海。リバプールには1/17着。目的地のパリに着いたのは日本を出て1ヶ月以上経った1/18だった。直行便だと12時間半で行ける現在では想像し難い状況だ。 しかも英国代表団が既にパリへ移動したあとなのに日本全権はイギリスに立ち寄り、あいさつ回りをして遅れ、パリに到着したのは、すでに会議は開始されたあと。アメリカ大統領ウィルソンが最も重視する「国際連盟」創設の提案演説をした直後の1/18午後9時過ぎだった。 会議は各国の思惑が入り乱れ、5か月に及ぶ。全権各員はそれぞれ分科会に分かれて討議。喜多は経済関係の問題の解決にあたる。結局、日本はドイツから攻略した中国山東半島租借地の利権とグアム、サイパンなどの南洋諸島の委任統治権を獲得。しかしこの問題では中国(支那)のプロパガンダが功を奏して、アメリカのランシング国務長官、ウィルソン大統領が日本獲得に反対に回り、危うくドイツから中国への直接返還がきまりそう 彼は率直な感想を述べる 「会議は英米仏伊日の5か国。だが実際はイタリア抜きの4か国だったり、日本抜きの3か国で決められていく。日本も20年間くらいは官民一致協力して働き、実力を貯える必要が 「今回の講和会議で最も成功を納めたのはイギリスで、その委任統治の下にカイロからケープタウンに至る鉄道敷設とインドに至る「バグダッド鉄道」の管理を実行することになったのは総理大臣ロイド・ジョージの外交政策の結果だ。また英国の最も公平な主張と一貫した態度は感嘆しないわけにはいかなかったが、一方アメリカはその外交方針がすこぶる傍若無人で、自己の権利を主張する場合には、他国の事情を考慮するなどということは極めて薄く、日本が当然の主張を一貫して通すことが極めて困難だった」と述べているのはその後のアメリカを彷彿させる。 この講和会議で初めて中国は日本との問題を国際的に華々しく宣伝・上演したが、その果実は得られなかった。しかし1921年にアメリカが主催したワシントン会議では、アメリカが日本のアジア進出を警戒し、抑えようとしたため、中国の法外な要求は主義としてはほとんど採択された。また第1次大戦中、英国のためにインド・東洋の忠実な監視役も勤めた日英同盟を英国は廃棄すると宣言して、米国に媚を売り日本を裏切った。 当時中国の多くの企業はほとんど日本人が握っていたが、中国の主張が国際的に認められるにつれて排日、排貨(貨物)運動が激しくなる。更に国産品重視の「国貨運動」や関税率を上げる作戦で中国人自身の各種事業が勃興する。喜多はこのことも予見し、合弁、現地会社を次々に設立。中国の外交部長・王正廷とも交流して共栄を計った。彼には信念があった---「欧米人は居留地では出来ても、支那内地に入って仕事はできない。日本人は同文同種で生活様式も簡便で支那人とも親しみ易いからいくらでも内地に入って働くことが出来る。」ただ、両国民性の違い---日本側の会社本位の基調と中国側の自己本位の我欲が合いいれず難儀をする。ま 日本は中国の執拗な求めに応じて、第1次大戦で得た山東半島を中国に還付した。当然中国の対日空気はたちまち緩和し排日排貨も終息すると日本人は考えた。が事実は全くこれに反した。喜多はこれを予想して山東返還には常に反対していた。中国人は決してそんなに甘い人種ではなかった。これは仮に現在の尖閣諸島を中国に渡しても日本人の期待とは裏腹になることを予想させる。 長野朗氏がおもしろいことを言っている--- 「中国人は平気でうそを言う。ウソは圧政の結果であって、弱者の武器である。初めは方便だったものが習慣になり、平気でウソをいうまでに堕落した。中国の女はほとんど嘘ばかりである。だから周りを一応信用できる親族で固める。だが一旦信を得ると徹底して信用する。これは日本人には出来ない。」喜多はこの『信』を得た一人であったのかもしれない。 実際、済南事件後の昭和4(1929)年、排日排貨取締りと日本軍撤兵とを交換条件として解決しようとして当時の芳沢公使が王正廷部長と交渉中、最初軌道に乗るようにみえたのが突如逆転して徹夜の大談判も決裂した。たまたま当地に赴いていた喜多は早速王部長と会って意見を交換、するとどういうわけか間もなく交渉は再開され、この難題も円満解決に至ったことがあった。まさに彼が「支那私設公使」と言われる所以である。 ![]() 中国では孫文の政治顧問であったロシア人ボロディンが中国の共産化を進めた。孫文の死後も政治顧問として居座り 英租界を攻撃奪還したので、英国は日本に協力を求めた。しかし幣原外相はかつて「日英同盟」で裏切られた英国を、自主外交推進の名のもとに、助けなかった。しかしボロディンが英国一国だけの排除を画策している風を装って、共産化を進めたとき、日本は漁夫の利を受けられると見て、いい気になり、うまく騙された。結局列強は個別撃破され崩壊したが、喜多は最後まで共同作戦を主張した。政府はそれも無視した。排日排貨(貨物)、国権回復、不平等条約破棄、などで中国が軍界、学会、工農、新聞、弁護士、婦人連と総動員して日本打倒を目指しているときに、日本ではこの問題が政争の具でしかなく、国民は惰眠を貪っている。中国で苦しむ日本人の、この鬱積が満州事変に発展する。満州事変は決して突発的なものではなかった。 人は彼を評して「綿業界のナポレオン」と言う。彼は他人のために斡旋する労を惜しまず、実業界の成功者として名声が高く信用も厚かったので、各方面より引っ張りダコとなり随分多く59の重責を兼務することになっていた。しかし喜多はかねてから腎臓を病んでいた 「純情の士」であり、「商売人というより古武士だった」と言う人もいる。また「恩を仇で返す人が多い中で、仇を恩で返す人」だったともいう。彼の友人のアメリカ人A. Mayhew氏は次のように言う。 In his passing, not only this organization, but his country and the world has lost a great, good and noble soul.(彼の死によって、この会社だけでなく、日本、いやこの世界が、偉大で、優れた、高潔な人物を失った。) <終わり><最初のページへ>
|