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昨日の間に宿の支払いは済ませて置いたので、6時前に目を覚まし、簡単にグレープフルーツとパン、にトマトで朝食を済ませて、プラハ北駅(Holesovice)へ急ぐ。石畳の道をゴトゴトと荷物を引いて、まずは地下鉄へ。昨日のAC線と違って、B線のRepubliky駅のエスカレーターの速さはすごい。大きな荷物を抱えて乗るときは目が回りそうで老人の我々は緊張する。それでもラッシュアワーの中をプラハ北駅へ。驚いたことに1等は特別待合室を利用できるらしい。ポーランドのクラコフまでの1等切符を昨日求めてあったので、それを示して入ってみる。暖房がきいて、ビロードのシートが並び、大きな薄型テレビが部屋の両サイドの壁に張り付いている。756発なので、ゆっくり休んで10分前にホームへ。ところがホームの1等車の前で検札をしている駅員に見せると、「座席指定券がない」と英語でいう。すぐに改札に戻って指定券(200コルナ1000)を電算から打ち出してもらう。昨日切符を買うときに窓口は一言もそのことには触れなかったのは、聞かなかった私が悪いのだろうが、日本だったら「外人旅行客」が新幹線窓口に切符を買いに来て大阪までの乗車券だけをかって行こうとしたら、「これだけでは乗れませんよ」くらいのことは言うだけの親切心をもっているものだがと対応の違いが気になった。ホームにはチェコ語、ロシア語、ドイツ語の表示はあるが、英語の文字は一切ない。切符はもちろんチェコ語だけ。

 とにかく間に合って、1等車に乗りこむ。防音、クッションもよく、なかなか豪華だ。広軌なのに真ん中の通路を挟んで、左に2列、右に1列の座席しかない。それぞれの座席は明るい赤の模様のシートで、リクライニングも背中の上部だけも後ろに倒れるようになっていて、腰が伸びるように工夫されている。飛行機と同じ個人用の照明が上から個人に当たる。横には230Vの電源がすべての座席に備わっていて、大きなテーブルでパソコンなどを時間を気にせずに利用できる。しかも飛行機の通路を行き来するような食物や飲料を配布するトロリーを引いたスチュワード、スチュワデスが回ってきて、タダで朝食用のサンドイッチやコーヒー・紅茶を無料で提供してくれる。また、チェコ航空が所属するスター・アライアンスに今乗車のマイレッジが加えられるので登録してほしいと英語のアナウンスもある。日本の新幹線と違って高架鉄道になっていないので、外の景色と同じ平面を走るため、スピード感がまるで違う。

そとは一面緑の絨毯を引いたように麦や短い草が生い茂り、遠くには木々が突き立って、単調さを破る。幹の白い白樺のような木々。青空には積乱雲が浮かぶ。緑の向こうには赤い屋根の集落が見える。その中心には尖塔のある教会。やがて大きな町に近づくと工場らしい建物が近づき、労働者のアパート群がそびえる。静かに列車はホームに滑り込む。大きなリュックを背負った若者が乗り込んでくる。彼らは必ずといっていいほど、本を読み始める。列車は静かに加速する。草の生えた軌道が窓の下を後ろへ飛んでいく。また緑一面の世界。広告の看板が全くない。緑の葉の中に白い小さな花を咲かせた木々が緑の中に目立つ。山は見えず、なだらかに緑の大きな波がうねっている。国境付近では山がちのところを通過したりする。そこでは突然空模様が変わって、驟雨に襲われるころがあった。稲光、窓ガラスに吹き付ける大粒の雨。列車は無関係に突き進む。しかし、10分としないうちに、青空が現れたと思ったら、またあたりは一面の緑に変わる。

3時間半ほど走ったら、乗り換えるべき駅に着いた。座席指定券にはこの駅まで通用とあるので、次の指定券がいるのかと思い、窓口へ走る。が、パソコンで時間をかけて調べていた駅員がやっと「必要ない」と一言告げる。ややこしい。ホームにいた人にチェコ語で聞いてみる。何とか通じる。乗り換えは3番ホームとあるので、そのホームへあがる。ところが、そこは2番線、4番線とある。よく調べると軌道とプラットホームに違う番号をつけて区別しているのだ。やがて、現れた列車はやや古ぼけていて、さっきとは違う。でも何とかコンパートメントに乗り込んだ。あとから乗り込んで前の席に座った若い女性が英語をしゃべれることがわかったので、話しているうちに、同じ列車の車両にワルシャワ行きとクラコフ行きがあり、今乗っているのはワルシャワに直接行くので途中で切り離されるという。仕方なく後ろの方の車両に重い荷物を押しながら急いで移動。国境ではパスポートの検査だけ。でもポーランドに入ると外の風景が変わる。手入れのあとがあるチェコの田園風景から、ポーランドの手付かずの森と湖の国へ。しかし未開の原野という風景が鉄道の周りにさえ展開する。大きな山はないのに、木々が無造作に生えているところが多い。ヒットラーもこんな殺伐とした雰囲気の場所と「殺人工場」を結びつけたのかもしれないなどと思ってしまう。荒野の途切れたところには緑の平原の中に集落が点在するが、造作もチェコのそれより質素で荒んでいる。やがてアウシュビッツの置かれたオスビーチムの駅へ停車。でも今日はこのままクラコフへ。このころになって、電車は猛スピードになり、終着駅のクラコフに滑り込む。
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ポーランドの昔の首都クラコフの西に、かつて110万人を殺した「殺人工場」のアウシュビッツがある。その見学のためクラコフのバス・ターミナルへ向かう。それらしい場所は見つかるが、詳しくは分からない。老婦人が乗る場所をポーランド語で説明してくれるが、全く通じない。そばの若者が英語ですぐに助けてくれる。地下の乗り場D13に行きなさいという。アウシュビッツまで現地のツアーに乗ると120ズロティ(4,200)だが、路線バスだと往復でも14ズロティ(490円)で、ほとんど9分の1だ。ちゃんとアウシュビッツI収容所まで往復してくれる。1時間半もかかって50キロの道のりを進む。

ポーランド(Poland)とはplain land(平地)が変化して出来た語だそうだ。確かにどこまでも続く平原の国だ。だからナポレオンもヒットラーも急行列車が通過するような速さで占領できたのだろう。周りの強国の餌食になり、100年以上もの間、ポーランドという国が地図上から消えてなくなった時期もあるほどだ。クラコフはユダヤ人に対してわりに寛大な政策をとっていて、ユダヤ人が多く住んでいたこともあり、ヒットラーはここに「殺人工場」を作ったのは皮肉な話でもある。

田舎のこぎれいな家々が車窓をよぎる。その道路沿いの庭先には大きな十字架があったり、マリアの石像が立っている。運転手の前の大きな日よけの裏側にもマリア像と聖パウロ2世の像がお守りのように貼り付けられて、運転を「見守って」いる。このような信心深い習慣がいっぱいの地域が史上最悪の殺人現場になったのもまた皮肉に思える。

アウシュビッツの見学は基本的にはタダだ。しかしほとんどの人はポーランド人ガイドについていって説明を受けることによりガイド料を払う。でも英語が分かりにくい。同じグループの英国婦人も4語に1語くらいしかわからないとこぼす。巨大なユダヤ人たちの写真の前でとうとうとまくし立てるが、発音もリズムもスラブ系でほとんど頭を通り抜けていく。囚人宿舎の中は博物館になっていて、ガス室へ送り込む前に断髪した頭髪が2トンも積みあげられた部屋がある。ナチスはそれを繊維業者に売ったり、ドイツ人の軍服を作らせたそうだ。館内の写真撮影は禁止だという。なぜ?外圧がかかって、ここでの活動がストップさせられるかからだと言う。腑に落ちないので、むしろもっと知らせるためには写真を撮らせたほうがいいというと、「日本からもテレビが取材に来るから知られているはずだ」という。でもこの「頭髪の部屋」の報道に日本で接したことはない。結局、写真を撮っている人も結構いて、制止されることはなかった。

 同じグループにイギリス人老夫婦が参加していた。見ると主人の右腕が全部金属の義手だ。第2次大戦でドイツ人にやられて負傷したが、何とか生き延びたという。
 「俺はドイツ人を絶対に許さない。しかし日本も当時はドイツの友人だったなあ」と不愉快そうな表情になり、妙な雲行きになった。すると隣にいた奥さんが主人に
 「私たち、来る前に『戦場にかける橋』を一緒に見て来たでしょう? 日本人兵士にもすばらしい人もいたのですよ」と取り成した。
 帰りのバスを待っているビルケナウのバス停で、ミュンヘンから来たドイツ人夫妻にも会った。私が日本人と分かっていたから、自分の国籍を明かしたようだった。
 「私は自分の国が行ったことを恥じています。でも1度は実際にここに来て、見てみたいと思っていました」と小さな声で言った。

 収容者の中では肢体不自由者が最初に処分されたらしく、義足、義手の山。ユダヤ人の丸いメガネのつるも針金の山のようになっている。ガス室の天井の穴からまかれた毒ガス(チクロンB)の空き缶の山。収容者の写真も収容棟の廊下一面に張り出されている。男女とも頭は坊主狩りでメガネのなしの登録写真を拡大したものの下に、収容年月日と死亡年月日が記されている。頑強そうに見える若者でもせいぜい3,4ヶ月の生存期間。その間の苛酷な生活から体調を崩して、どんどん「処刑」されたことがわかる。敷地の脇には、ここの所長だったフスがあとで絞首刑になった首吊り台が屋外にある。この近くに彼は豪邸を構えて暮らしていたそうだ。

午後にアウシュビッツ2、つまり少し離れたビルケナウ収容所に向かう。「シンドラーのリスト」で有名になった広々とした収容所だ。110万人を「殺人工場」へ送り込んだ鉄道線路がそのまま監視塔の下をくぐって敷地に入っていく。ここから脱出するには火葬場の煙になるしかないと言われたところだ。左右に電気鉄条網が2重に高く張られた間をそのまま線路に沿って進むと左右に大きな入り口のあるところに出る。そこが貨車から降ろされた「囚人」を選別した場所だ。ナチスに雇われた医者が、降りてくる囚人を交通整理の警官のように、左右の入り口に振り分けたという。片方はガス室へ直行する弱者たち。もう一方は数ヶ月苛酷な労役を強いられてから殺される若者たち。数ヶ月の差はあっても終着点はガス室で、そのあと火葬されて、煙となって天国へ解放された。

 鉄道を中心に左右に広がる広大な草地に無数の「宿舎」がある。本来は152頭の馬を収容する厩だったらしい。しかしその同じスペースに最高で1000人もの人間を詰め込んだ。明り取りの小さな窓が天井近くにある以外は四面すべて板で覆われただけの細長い小屋だ。内部は両側に3段のカイコ棚ベッドがあり、1畳くらいに仕切られた板の上では7~8人くらい横になったらしい。寝る人同士の体の隙間がなくなるように、ベッドの床は傾斜がつけられていて、ナチスの悪知恵のすごさを垣間見る。真ん中にはレンガ造りの暖炉の煙突のようなものが走っているが、マイナス20Cにもなる極寒の冬にどの程度の役に立ったのだろうか。さすがにトイレは別棟だったが、U字型のコンクリートブロックを20メートルくらい続けて置いたものに直径20センチくらいの穴を10センチくらいの間隔で無数に開けたものが何本も並べられているだけ。この20メートルくらいのブロックに60人くらいは並んで用を足していたことが想像できる。もちろん水洗ではないので、汚物処理も、弱った囚人の仕事になり、想像を絶するひどい状況だったらしい。だから逆にゲシュタポはここには近づきたがらず、囚人たちの密談や情報交換の場所にもなっていたという。

 狭い1メートル4方くらいの場所を低いコンクリートブロックで囲んだ場所が地下室にあった。人を身動きができないほど詰め込んで立たせたまま何時間も監視して、倒れるとガス室へ送ったそうだ。戦時中の日本でもあったが、グループを組ませて、そのうちの1人が脱出を企てたというので、グループ全員が拷問を受けたり処刑されたりした。その関係で有名な話がある。

 ポーランドのマクシミリアン・コルベ神父は、日本にも来たことのあるカトリックの伝道師だったが、ユダヤ人を含む難民救済施設を作ったという理由でナチスに逮捕され、アウシュビッツに送られた。ところが、彼の収容されたブロックで1人が脱走を企てたというので、「共同責任」の名目で、そのブロックの中の10人が選び出されて「餓死室」送りになった。その犠牲者の中に、残される家族のことを真剣に心配する若者がいるのを見て、神父は「年配の自分が身代わりになって餓死室へ行こう」と申し出て、認められる。2週間後「餓死室」の扉が開けられると、中にいた10人のうちコルベ神父だけが、まだ生きていることがわかり、そのうわさが所内に広まってしまった。しかし、囚人に妙な希望を与えてはまずいというので、即座に神父は毒を注射されて、息を引き取ったという。

 民主的選挙で51%のドイツ国民に選ばれたヒットラーだったが、いったん権力の座につくと、これだけひどいことが出来てしまう。そしてその暴走を一般人民は全く抑えることが出来なかった。この「殺人工場」に残された事実は、カリスマ的な人間に「権力」をゆだねることがいかに危険なことであるかを身にしみて分からせてくれる。これは現代のわれわれと無関係な出来事とは思えなかった。幸か不幸か「歴史は繰り返す」からだ。<次ページへ>

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