Clevelandに行く前の3日間、New Yorkで過ごした。6/12午前10:45にJFKに着いた我々を、直前にMiamiからJFKに戻って来たNew York Times記者のChristineさ
時差ボケを解消するために1泊したホテルは、Grand Central Stationの近く40th StreetにあるSeton Hotelという比較的小さな小奇麗なホテル。地元のChristineさんの推薦だけに、便利で融通がきく。まだチェックインの時間ではないが、気持ちよく入れてくれる。しかし便利な場所だけに2人で税込295ドルと高い。でもマンハッタンの中心部としては安い方らしい。今度は冷房のよく効いた静かな部
ご存じの方も多いが、世界貿易センタービルの2つのタワー跡(Ground Zero)は、そのまま四角の深い穴のプールになっていて、四方から滝のような水が壁伝いに流れ込む。それを取り囲む石枠には3千人の犠牲者の名前が彫り込まれている。
6/13(土)
![]() 前後に並んだ席がある2人乗り機で後ろに彼が乗りコントロールするので、お客は1人だけ。Who is the first victim?と彼が笑いながら言うので、私が立候補。主翼の付け根部分の指定されたところに足を載せて前の席にもぐりこむ。飛行中はプロペラの音で会話は不可能なので、ヘッドフォンで話す。客が乗る前席には速度計と高度計の他は操縦桿が足元から上に伸びているだけ。エンジンが意外に大きく、背の低い私には前の視界がかなり遮られている。コックピットを覆う透明なフードが下ろされると、後のDavidがエンジンをスタートさせ、目の前のプロペラが回り始める。自動車のエンジン始動と同じような感じ。小さな飛行場なので、やがて動き出したと思ったらすぐに滑走路の端に着く。インターコムからは何も聞こえてこないが、管制塔と連絡は取っているようだ。そのまますぐにエンジンの回転数をあげて100mも走ったかと思ったら、もう離陸していた。重いジェット機
まだ時差ボケが解消されないので、家に戻って昼寝をさせてもらい、夕方、近所を歩く。近くの不動産屋の看板を見ると1億円から2億円もする住宅が普通で、ゆとりをもって並ぶ高級住宅地。イギリス人の植民した地域の名残りか、古い ![]()
裏の家のAbe(=Abraham)さんが、「私はアベだよ」と笑いながら、裏庭のディナーに加わる。我々が来たので、呼ばれたようだ。初孫が生まれたとかで、自分でCosmopolitanというカクテルを作ってご馳走してくれる。やっと初孫に恵まれたAbeは日本の若者の結婚事情について聞いてくる。Jimは今は編集者だがNew York TimesのMen's Worldというコラムを継続担当していたと言う。若者の3倍も給料をとるので、会社は追い出したがっていると半分ジョーク。戸外でかなりの暑さの中なのに、不思議に蚊がいない。分厚い身の鮭のバーベキュがうまい。Abeはキューバからの移民で、アメリカにたどり着いたときの苦労話をしてくれる。
かなり暗くなったので、室内のソファに移って雑談の続き。ウクライナ情勢への懸念。アラブの混乱。でもアメリカ人はいずれ何とかなると思っている様子。「世界の将来を楽観視しているか?」と聞かれるので、「No」と答えると意外だという感じ。「民主主義は確かにすばらしい制度かもしれないが、世界のどの地域にも適応できるとは思わない」と控えめに言うが皆沈黙。やはりアメリカ人は皆民主主義信奉者のようだ。政治の話はしない方が良いのかもしれないが、聞かれたら答えないわけにいかない。 |
![]() 6/14(日) 今日はこれから船でロングアイランドに渡り、道彦の昔の友人David Milne氏宅 一通り終わると別室に飲み物とスナックが用意されていて、簡単なランチが出る。そこでまた「日本からの来客」はいろいろな人に紹介される。でも多すぎてすぐに忘れる。一応何人かに名刺は渡す。船の時間が迫ってくるので、急いでBridgeportのフェリー乗り場へ。対岸のロングアイランドPort Jeffersonまで1時間、60才以上は15ドル(普通は18ドル)。Christineさんが別れ際にチキンやサラダのランチをパックして渡してくれる。全く至れり尽くせりだ。 波もなく快晴で、順調に進み、予定通りPort Jeffersonに到着。Davidが迎えに来てくれている。道彦とはもう20年来会ってないそうだが、親しみ深く迎えてくれた Davidの息子もDavid, 祖父もDavidで3世代同じ名前なので、息子はDavid the 3rdと呼ばれる。彼はマンハッタンの南のGreenwich Village付近のIT会社に通って 息子のDavidが作ったテーブルが1階のベランダに置かれ果物の入った大きな器を挟んで、道彦と父のDavidが昔話をする。ビル全体を冷やす大型冷凍機がアメリカでは電力を使うのが普通だった30年くらい前、道彦が「日立」で安価なガス・エネルギーを 6/15(月) 食事中、道彦は、自分の誕生日でもある(2001年)9月11日の朝、アメリカ同時多発テロの時間に、たまたまワシントンDCへ向かう飛行機に乗っていてデトロイトの上空に居たので、その顛末記をDavidに聞かせる。この彼の経験は、この度の旅行中にいろいろなところで聞かれ、彼もその度に詳細に答えていた。 East
Hamptonからマンハッタン行きのバス停があるAmagansettまでDavidが車で送ってくれる。着いたら土砂降りで、車の中で待機。やがて豪華なバスが来る。ゆとりのある座席にはテーブルもあり、熱いコーヒーやお菓子がタダで配られ、WiFiも利用出来て、飛行機の機内のようだ。バスがやや遅れ気味なので、マンハッタンで待ってくれているChristineさんにiPadのSkype電話で到着時間を連絡。バスがグランドセントラル駅近くに到着したころには雨はほとんど上がっている。East Hamptonを出て2時間余りで、約束した3rd Avenueと39th Streetの交差点 すぐに彼女の夫のJimが待ち受けているNew York Times本社の見学に向かう。昔は、その名が示すようにタイムズ・スクウェアの角にあった本社は、今は数ブロック西に移動している。世界一の報道機関だけあって、セキュリティは厳しい。見学はあまり認めていないせいか、チェックを受けるゲートは2つだけ。抜けるとエレベータが並ぶスペースへ。1台めのエレベータ・ボタ すぐに広い編集室へ。新聞社の編集室というのは書類や書籍に埋まっているという先入観があったが、今ではパソコンが並ぶ普通の会社と変わらない。ただ、昔のやり方を維持しながらパソコンを編集などに導入した部門と、最初から完全デジタルだけで全てをこなす部門とは分けてある。しかもiPhoneでの記事配信に特化した技術を開発している部門まである。Jimが国際部門にデスクを構える田淵晴子さんのところへ案内し紹介してくれる。東京からの日本経済、ビズネス、科学技術などの情報を担当。彼女もJim同様、ピューリッツァ賞を取ったことがあるNew York Times記者だ。Book Review関係の記事を編集する中心人物にも紹介されたが、年配のベテラン女性だった。廊下には今までのピューリッツァ賞を受けた社員の写真が並ぶ。ものすごい数。3階には、編集会議室。毎日20人くらいの編集トップが集まり、トップ記事を何にするかなどを決めるそうだ。更に4階にはインタビュー・ルーム。大テーブルを囲んで30人くらいは座れそうな部屋だが、今までこの部屋でインタビューを受けた世界の著名人の顔写真が四方の壁を埋め尽くす。チャーチル、ゴルバチョフ、蒋介石、ケネディ、マンデラなどと並んで、現天皇皇后の皇太子(妃)時代の写真が目についた。200人くらいの世界の著名人の中で唯一の日本人だった。社員カードだけを支払い手段として認める社内のカフェテリアで食事。Jimが自分のカードで精算してくれる。Jimは仕事を中断して我々の案内をしてくれたので、ここで仕事に戻る。マンハッタンの摩天楼が周りにそびえたつのを見ながらChristineとしばし歓談。外はまだ雨模様だが、セントラルパークを横切り、MET(メトロポリタン美術館)に行こうと出発。 このあと私と道彦は夜8時にNewark飛行場からClevelandへ発つ予定があり、 Christineさんと別れて路線バスでNewark空港へ。マンハッタンの混雑を抜けて、ハドソン川を渡るとNew Jersey。意外に早く着いたので、喜んでいたら、間もな我々のフライトが2時間半遅れと表示が出る。我々の便だけではない。全体を見ても4分の3くらいの便は1時間くらいの遅れ。特に事故があったわけでもなく、過密ダイヤの無理が夕方の便にしわ寄せされるようだ。あわててClevelandのホテルやレンタカーに遅れの連絡。しかし空港内のスピーカーの騒音はひどいし、電話の音声状況も最悪で、大変苦労する。8時発のはずの飛行機が飛んだのは何と11:30で3時間半の遅れ。でも1時間後の12:30にはClevelandに着いた。フライトがキャンセルにならなくて良かった。 ![]() |