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秀 子
平成10年の幕開け、1月4日に私たちタント一族の恒例の新年会が催された。田無駅前に新しくできた「鮮の庄」という鮮魚専門の料理屋である。
例によって例のごとく、飲む人は飲み、食べる人は食べ、大いに宴が盛り上がったが、そろそろ時間が迫ってきたところで、皆が近況報告をすることになり、順番に一人ずつその場しのぎにお茶をにごして終わった。
1年 に1度の全員顔合わせということで、それはそれなりに一族の親睦をはかるチャンスで、大変有意義なことだからできる限り参加してほしいと思う。
ところでその時私は突拍子もない想像をしていた。あと十年すればどういうことになるのだろう。今一番若い孫が今年成人式になるのだ 。即ち20才。ということはあと十年たてば彼らは30才。おそらく全員が結婚して子供の一人や二人はいることだろう。すると全員集合ということになれば全員とは一体何名? 私の大まかな計算によると40数名? クラス会でもこれだけの数は集まらないと思う。大変な数である。大会場を予約せねばならぬ。我が家の田無に帰ってもこれだけの大供子供が右往左往することになると部屋を開け放してもおさまりきるのであろうか? もっとも全員が集まれるとは限らない。」遠方の地に赴任しているものもいるだろう。でもお正月には帰ってくるとしての話である。私はこの大いなる集団を想像して暫し愕然とした。
2という数字から出発したまさに不思議な数の拡がりようである。ネズミ算というのだろうか。しかし半世紀も経た結果であれば当然ということかもしれない。
よく言えば種族の繁栄、悪く言う筋はないが、とにかく不思議な現象を想像して驚きと身の引き締まる思いがしたのである。ここまで書いてふと気がついた。その時私はどこでこの光景を見るのでしょう。現世か、あの世か?
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50年前の同窓が同僚だった!
健夫
私の学校に数学を教えておられる伊藤信通という先生がいる。他の都立高校で停年をむかえて本校に4年前に嘱託として週に9時間程度教えておられる。常勤の教師と違って職員会議にも出られないのであまり接触がなく言葉も交わしたことがあまりなかったが、今度たまたま私の学校で出している「紀要」に原稿を書かれた。私もこのホームページで紹介させていただいた「教育論?」を載せてもらったが、そのすぐ後の記事を読んでいて驚いた。何とそこに出ている学校の配置図が私たちが兄弟が50年前ころ通っていた下関の「小月小学校」だったからだ。私は当時疎開していた長崎県島原市から親父の勤務していた小倉の朝日新聞西部本社への通勤圏である下関へ小学校3年生として転入学した。5年先輩の彼は小月国民学校に入学し、私が転入学したときはすでに卒業していたことになるが、当時校庭に掘られた防空壕の様子から担任の先生のあだ名までぴったり話が合った。しかも我々が住んでいた家から直線距離で200メートル位のところに住んでおられたので、子供の遊び場だった公園やアイスキャンデーを買いに行った店、夏休みの「早起き会」を行った神社やウナギを手づかみに行った
小川、小鳥の罠を仕掛けた裏山まで話が一致した。今とは全く違う子供時代を過ごした世界をもう一度共有できたのは感激のひとときであった。
その内容は:
●田無祖母つれづれギャラリー
●お正月を南房総で
●5年ぶりの風邪
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