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アフリカを行く

乙彦・俊子

  8月6日に成田をたって、シンガポール、ドバイ経由でケニアのナイロビに到着した。正味のフライト時間は19時間であったが、この19時間は連続ではなく、7+7+5時間と細切れであったので、それほど疲れはなかった。さて、これからがサファリ・ドライブの始まりである。総勢22名の団体旅行であったが、6+6+6+4名で4台のサファリ・カーに分乗した。アフリカというと「暑い」というイメージが強いと思うが、高度が2000メートル以上であり、結構涼しい。また、ナイロビは都市であり、ビジネス・マンがスーツにネクタイ姿で活動しており、勿論ゾウやライオンのような動物は住んでいない。それらの動物は、非常に大きな自然保護区や自然公園といった場所に正に自然に生活しているわけである。従って、その自然保護区や自然公園に入るにはゲートがあり、逆に動物達もそのゲートを通らなければ外には出れないわけである。我々の宿泊したロッジはその自然保護区の境界また はその中にあり、夜な夜なゾウや水牛がそのロッジのすぐ横まで現れるわけである。やはり昼間は暑いので、動物達も夕方と早朝に活動を開始するわけで、その時を狙って、我々もサファリ・ドライブに出かけた。一番多い動物はヌーとシマウマであり、大群で移動している。これらの動物がライオンらの餌であり、犠牲になっている姿には何回か出くわした。ライオンの後はハイエナなどが食らいつき、最後にハゲタカや鷲が正に骨と皮だけにしてしまう。サファリ・カーはライオンが食後横たわっている正に1メートル以内を通るわけであるが、悠然と寝たままでいるのには恐れ入った。さて、人間にも色々な人種がいるもので、例えば「マサイ族」の村を訪ねたが、牛の糞で固めた壁の小屋で電気のない生活をしていた。その生活がいい悪いは別として、文明や文化とは何かを考えさせられた。また、我々の4台のうちの1台のサファリ・カーが故障したので、やむを得ず3台に分乗して最後の目 的地に向かった際、故障を直して後を追いかけてくるはずのその車が途中で横転してしまった。しかし、通信手段がなく誰もはっきりした情報がなく、1夜心配して過ごすことになった。われわれの4台のサファリ・カーのうち、無線電話を設備している車が1台しかなく、その横転した車からはどうしようもなかったし、こちらからもどうしようもなかったわけである。幸い運転手が右腕に怪我をした程度であったが、個人の携帯電話やカーナビが発達した時代に、なんともお粗末であるという感じが拭えなかった。しかし、自然と動物達の素晴らしい営みに感激した10日間であった。


今日の日まで


秀子

 田無も変わった。移り住んで45年も経つと、我が家もさることながら、周りの町並みも、そこに住む人々も世代交代で入れ替わり、当然とはいえ、何とも侘びしい気分におちいるわけである。たまたま同年輩の知人達と町で出会えば「体調はいかがですか」に始まり、「やっぱり年でしょうね」と慰め合い、最後は「でも頑張りましょうよ」といって別れる。殆どの老人が一病か二病かかかえている。今の日本は世界一の長寿国とか。”長寿イコール祝福”というのが今の「敬老の日」なるものの主旨であるようだけれど、果たしてそうであろうか?健康で経済的にも豊かに暮らせてこそ祝福されて然るべきだと思うのだが、実状はどうであろう。寝たきり老人、難病に悩む人、これらの人が果たして幸福と言えるのだろうか。まず心身共にすこやかであること、これは絶対だと思う。私自身足腰を悪くして、心底そう思った。他人から見れば、たいした悩みではないかも知れない。しかし足を引きずりつつ生活をしていく苦労はなってみなければ分からない。今、もし足腰が以前のように丈夫であったなら、乙彦達のようにアフリカまでもとんでいったかも知れない。そうでなくても国内でまだまだ未知の 土地へ行ってみたいと思う気持ちもある。一人旅は自信がないが、照子が付いてきてくれれば、案外実現できそうな気もする。それには先ず足腰を鍛えること、少なくとも多少は歩けなければ話にならぬ。車を使えばいいといっても、全然歩かないで行けるところはない。しかし幸いなことに、私が自立生活をしているために、この暑い最中もかなりの運動を強いられる。庭の雑草とりだけでも大汗をかくほどの運動量になる。毎日の買い出しもあるし、事務的な用事もある。これらを処理してゆくことが私の日課だが、1年ばかり前からのダイエットと相まって5キロは完全に消耗した。あと4,5キロも消耗できれば大分身軽になるだろう。足腰の痛みも、これを支える上半身が身軽になればその分楽になるのではないかなどと素人考えで期待している。
 さて、私の今日まで歩んできた道をふり返ってみた。
昭和30年東京に移ってまもなく、私も、何か私なりにできる社会のためになる仕事ができないものかと考えるようになった。いろいろ考えた末、家にいても出来る盲人のための点訳の資格を、日本点字図書館の指導を受けて、1年半ばかりの通信教育でとり、以後23年間点訳奉仕に精を出した。73才で引退するまで、感謝カードは百数十枚たまっている。その間、読者の盲人の方々から寄せられた手紙は何よりの励ましであった。
 さて、その当時、時代を反映して、中高年相手のカルチャーセンターなるものが、あちこちに姿を現し、私もご多聞に洩れず、趣味として老後をいきるために陶芸を、机の上の仕事として写経・写仏を、習い始めた。陶芸は上手下手にかかわらず、オリジナルなものができるのがうれしく、7年間通い続けた。おかげで私の食器棚は一杯になり、子供達に貰ってもらわねばならぬ羽目になったが、これは本当に楽しい作業だった。80を過ぎた今日、私を励ましてくれるのはお写経・お写仏──これは手が動く限りつづけられるのでうれしい。高野山の総本山」、金剛峰寺にお写経を、山梨の五重塔写仏堂へお写仏を月に1回ずつ奉納しているが、おそらくこれが私の生涯最後の仕事になるだろうと思っている。
 何をしても許してくれた亡き主人の暖かい思いやりを今しみじみと身にしみて思う。それとやはり自分は自分で責任をもって老後の道を歩むことではないだろうか。人それぞれ、それぞれの道を悔いなく歩んでほしいと祈りつつペンを置きます。   合掌
(編集者注:今日8/30日は(祖)母の満85才の誕生日に当たる)

村田政子さんと

ラナンキュラス

 田無の(祖)母の姉、大阪に一人暮らしをしている86歳の村田政子さんの近況を伝える写真が届いた。そばにある赤と黄色の花はおばあさんが一人で育てたという素人には栽培が難しいラナンキュラス。黄色のラナンキュラスは英語だとbuttercup(キンポウゲ)と呼ばれる

ヨーロッパ3000キロ
ドライブ...
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健夫・悦子・浩

 最初は3人でヨーロッパ鉄道旅行を計画したが、レンタカーだと3分の1の費用で済むことが分かり、急遽車に切り替えた。パリからフランス西北部のモンサンミシェル(写真はこの上から見たイギリス海峡)、南へ下りてロワール河沿いにアンボワーズ、シノンソー、ブロアと古城巡りのあと、フランス中部のリヨンからスイス・レマン湖のジュネーブ、ローザンヌをめぐり、アルプスの麓シオンへ。さらにシンプロン峠でアルプスを越えてイタリアのミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ピサ、ローマを約2週間で走り回った。
 慣れない右側通行の道路をフランス製のマニュアル車プジョーで時速110〜130キロをキープするのは初めは戸惑いがあり、イタリアの大都市では、やたらに割り込んでくる乱暴な運ちゃんにも気を使ったが、美しくのどかに広がるフランスの田舎道はもう1度走ってみたいと思う。
 費用は航空券が7月23日発で往復1人10万6千円、レンタカー(Herz)は乗り捨て料を含めて1台7万3千円、ホテルはほとんど予約せず、行き当たりばったりだったが、1泊3人で朝食も含めて1万円前後だから、1人3000〜4000円程度。観光バスやタクシーは1度も使わず、もっぱら地下鉄、路線バス、歩きに頼ったが、それでも交通費、食事、入館料、お土産などを含めて総費用は3人で78万くらいだった。
 仏語や伊語がダメなので、ヨーロッパ大陸は言葉が大変だろうと思い、6カ国語の電子辞書を用意して行ったが、ほとんど使わず、もっぱら英語で押し通し、ほとんど不自由なことはなかった。田舎の町を行く普通の人は英語がダメなことがあったが、フランスの田舎の小さな郵便局や薬屋さんなどでも、英語で何とかなったし、実に親切だったのは全く意外だった。
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〜新婚6ヶ月の〜

ハワイ日記

毅・さおり

第一日(8月6日)
 ホノルル空港に到着。まずは、フラダンスの衣装を着た女の人と記念撮影。その後、フリーウエーをぬけて、ワイキキまでやってきました。日本のようなじめじめした暑さではなく、からっとしていて爽快でした。初日で時差ボケもあったため、海へは行かず、オアフ島一のにぎわいをみせるアラモアナショッピングセンターに行き、おそろいのTシャツを買いました。夜は田中オブ東京という鉄板焼きの店に行って、豪華なディナーを食べました。長く待たされたかいもあり、肉とシーフードの味は絶品で、二人とも満足して帰りました。
第二日(8月7日)
 二日目は朝早くからはりきって起き、オアフ島一の美観を誇る、ハナウマ湾に行きました。ハナウマ湾はその美観を維持する為に、市内を走るトロリーバスが湾から離れた停留所にとまる(観光客を規制する)ため、自分達はそこから20分近くかけて坂道をひたすら登っていきました。湾ではシュノーケリングをして、湾内に住み着いている魚を見ることができました。驚いたのは魚の大きさで、体長30センチほどの魚が群れをなして泳いでいるのです。みんなえさを持ってきて、餌付けをしていました。観光客がどんどん餌をあげるからあんなにでかくなってしまったのかもしれません。その日は日差しがそう強くなく油断していたため、日焼け止めのぬりがあまく、ホテルに帰ると足と胸が真っ赤になっていました。そのため、ハワイ滞在中はこの日以降お風呂につかることができなくなってしまいました。みなさんも日焼けにはくれぐれもご注意を…。
第三日(8月8日)
 きょうはオアフ島の観光名所として有名なダイアモンドヘッドに行きました。ワイキキからバスで20分ぐらいで登山口までいくことができ、そこから40分ほどかけて、頂上まで登りました。途中、明かり一つない洞窟を通り、目の前がまったく見えなかったので、何度もつまずきそうになりました。ガイドブックに懐中電灯持参と書いてあったのをすっかり忘れていたため、ひどいめにあいました。しかし、無事頂上までたどりつき、そこから見たワイキキビーチ周辺の眺めはなんともいえないぐらいの絶景でした。帰りは行きとは違って、半分の20分ほどで降りることができました。その後くたくたになりながらも、ホテルに直行し、水着に着替え、日が暮れるまでワイキキの浜辺で泳ぎました。この日は2人とも疲れてしまい、はやばやと寝てしました。
第四日(8月9日)
 今日は、5月にできたばかりのハワイアン・ウォーターズ・アドベンチャー・パークというプールに行きました。場所はオアフ島西海岸にあり、ワイキキからフリーウェイを通って40分ぐらいかかります。そこには、数々のスライダーがあり、中でもビル7階の高さから急降下するスライダーが1番の呼び物になっています。実際に乗ってみると、背中が滑り台から離れて体が宙に浮くような感じでした。他にも波のプール、流れるプール、水深3メーターに入水するスライダー等色々なアトラクションがあり時間が経つのを忘れるほど二人とも夢中になりました。午後からはボディボードの講習があり、二人とも先生に教えてもらいながら初めて波乗りを体験することができました。波に乗れたときは自分の体を波が運んでいくような感じで気分は最高でした。しかし、次の波に乗る為に波に逆らって突き進むことは思ったよりも大変で、1時間ほどの練習でしたが、二人ともくたくたになりました。この日はオアフ島最後の夜だったため、夕方からワイキキのショッピングセンターへ繰り出し、夜おそくまで買い物をしました 。夜景を見るため、シェラトンホテルのエレベーターを3往復ぐらいしました。最上階からの夜景は絶景で、何だかすいこまれていきそうな感じすらしてきました。
第五日(8月10日)
今日はハワイ最終日。チェックアウト後集合時間まで2時間ほどしかなかったため、ホテル周辺を散策しました。3日間滞在したヒルトンホテルとも別れをつげ、バスでホノルル国際空港に向かいました。短い間でしたが、ハワイの人々のあたたかさを感じることができ、すばらしい旅行になりました。また機会があったらもう一度訪れてみたいです。

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