フィジー
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既刊号です`→ 

1.
 孫2人のピアノ<
2. オーストリアの旅(Austrian Trip)
3. フラメンコの夕べ(Logrono)
4..もう1人の孫・ピアノ
5..実代・ベートーベン6つの変奏曲


 1. ポルトガル一人旅 (PORTUGAL)
 2. 東ヨーロッパの光と影 (EAST EUROPE))
 
3. タスマニア島とオーシャン・ロード
   (TASMANIA & OCEAN ROAD)
 4. ボランティア・ガイドのスナップ集
   (VOLUNTEER GUIDE PHOTOS)
  5.  `オーストリアの田舎巡り
   (The Countryside of AUSTRIA)
●サウンドとシナリオで「英語耳」!      (4以外は全編収録)
 1. 星の王子さま(Little Prince)
 
2. ローマの休日(Roman Holiday))
 
3. エデンの東(East of Eden)
 
4. セールスマンの死
   (Death of a Salesman)(未完)
 
5. 第三の男(The Third Man)
6. オバマ大統領演説集(President Obama's Speeches) 
 2014.2.6 Easy Plays from Shakespeare Igusa1998 Koyamadai3D Minamitama Kunitachi_1957 Shimonoseki

個人旅日記など 
2013年ガイド報告
1,980円で行く沖縄
好奇心に生きる人々
東大農場・演習林
伯父・米国留学の若き死
ヨーロッパ好意の旅
オーストリア田舎巡り
早春のクロアチア、スロベニアを行く
 東京で異文化交流
 タスマニア島とメルボルン
 東ヨーロッパの光と影
 ポルトガル一周一人旅
 フロリダドライブ日記
 ドイツ・オーストリア写真帳
 奥の舗装道(ほそみち)
 カナダ人我が家滞在3週間
 アメリカ国立公園
 西南ギリシャ
 サイパン島
 ニュージーランド
 セブ島
 カナダ・アメリカ西部
 アイルランド
 パリ→ローマ ドライブ
 ケニア
 フィジー
 フィリピン
 グァム
 北海道
 




 スペイン家庭訪問・フラメンコ(30分)
 オーストリアの旅(40分)
 孫たちのピアノ(13分)
 イオニア海の島々(40分)
 タスマニア・メルボルン(50分)
 東ヨーロッパ(40分)
 ポルトガル1人旅(40分)
 カナダ人日本滞在(50分)
 カナダ家庭滞在(50分)
 ニュージーランド紀行(80分)
 奥の舗装(ホソ)道(50分)
 フロリダ・ドライブ(50分)
 サイパン(20分)




 
 2012
2011
 2010
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 2004


 アメリカで吼える  ヴェルサイユ講和会議から中国の排日へ (←クリックすると飛びます)
高野山奥の院にある祖父、大岡破挫魔の墓石から遠くないところ、秀吉の墓の近くに、喜多又蔵の立派な墓所がある。彼は祖父の生涯の親友で、明治27(1894)年大阪高商(今の大阪市大)卒、祖父と同窓同期の人。祖父は三井物産に入社後、上海の支店長になったが、神経痛で退職。そのとき喜多に、自分が専務をしている日本綿花株式会社(現在の『双日』)に招かれ、転社。やがて喜多は社長になり祖父は専務として喜多の片腕で、「日本綿花」を業界トップに成長させた。一時は多額納税者で、関西財界十傑に入る身分となった。死後も墓までお互い近くにある。その祖父が、昭和71932)年に喜多社長が病死したときに、868頁にも及ぶ喜多の伝記を編集作成した。たまたまその本「喜多又蔵君伝」をネットを通じて筑波大の図書館で見つけて、借りることが出来た。出版後すでに81年が経過し、もう日本に何冊もないので、スキャナーでパソコンに取り込み一通り読んでみた。

鎖国が解けてまだ間がなく、日本で初めての国会が開設されて6年にしかならないころ、海外へは船で渡るしか交通手段がなかった。海の向こうの世界はまだ遠かった時代に、綿花を求めて世界中を動き回る喜多は文字通り民間交易のパイオニアだった。18才で「日本綿花」に入社したが、年功序列の時代にもかかわらず27才で支配人、34才で取締役、40才で副社長、41才で社長になった。彼の個性、勇気と決断で一時は会社も膨大な利益をあげて、全ての株主に半期で10割配当という前代未聞の利益還元を行ったこともある。また天皇が大阪行幸の際、東アフリカ綿作事情を直接説明する機会を得たり、一方で第1次世界大戦処理のヴェルサイユ講和会議の日本代表団にも選ばれてパリで日本のために奮闘する。しかし欧米列強の植民地政策や第1次大戦後の大不況、深刻化する中国の混乱と敵対関係から、関係する中国進出企業が大損害を受けて、その処理に難儀をし、過労で倒れて、56才の生涯を終えた。

喜多は、大阪周辺の4つの紡績業者が原料の輸入機関として設立した「日本綿花」の創立2年目・明治27年(1894年)に月給10(現代換算20)で入社。2年足らずで、当時の綿業界では最重要取引国インドのムンバイ駐在員になる。当時ムンバイ在留日本人は横浜正金銀行の駐在員の他、三井物産5名、郵船2名、領事館2名など全部で16名しかいないのに、正業でないいわゆる醜業婦やその関係のものがすでに40名も密航しているのに驚き嘆く。一方インドはイギリス植民地だったので、全ての権益をイギリス人が独占し、綿花の取引や日本への輸送もイギリス人が経営する「ガダム商会」を通さずには行えず、イギリス商人は労せず暴利をむさぼっている。ネットも電話もない時代に日本との意思疎通もままならず、本社もガダムとの関係を破棄する勇気はない。しばらくは「ウィスキー・ソーダの美味、得も言われず...」と異郷の道楽気分で過ごす。イカ、タコ、クジラ、ハモ、ウナギなどはインド人が食べないのを知り、捨て物同然なので拾うようにして買う。あるとき、2mにもなるクジラの子がマーケットに出ても誰も買わないので、彼が30(現在の1000円程度)で買い、在留日本人に配ったこともある。彼は生理的にも早熟者で、かなり艶種も蒔いたようだが、若くして老成の観があり、「女の顔よりルピー(お金)の顔が好きにて、ルピーさえあれば有益なる書籍も思うままに手に入り、モンスーンの閑散期にも読書に日を送りたし」と心機一転、自己啓発の道を辿る。実際、仕事前の毎朝7時半から1時間イギリス人教師について英語を学び、オフィスに行っても、休日で皆が玉突きに没頭しているときにも、彼だけは種々雑多の書物をひもとく。あるとき彼は、

Learning more books makes him more doubtful for every direction.

という一句に出会う。好奇心がどんどん膨らむにつれてますます疑問が出てきて何とかせねば...という彼の気持ちと期せずして一致して感服。

ムンバイでの経験を積むが、2年経過しても現地の権限はほとんど与えられす、ガダム商会との交渉は本社が直接交渉しで、本社の失敗だけを尻拭いさせられるのに、うまく行かないと叱責されるなど、感じるところも多くなり、本社重役に何度も意見書を提出するが、古い商習慣を守り、「得意先の好意を求めんとして、酒食だけを唯一の良策とする」ような本社では「喜多の若輩、何を生意気な...」と言わんばかり。世界の現実を知る彼は「自分の主張が入れられなければ辞職」という腹を固めて次の事項を要求する。つまり、出張員の権限の拡張、ガダム商会との交渉、インド内陸への視察、帰朝のときエジプト綿産地や欧州・米国視察をさせること...。たまたま新しい陣容になった本社重役たちは彼を解雇する勇気もなくこれを受け入れる。

そのころ父親が、大阪船場の百万長者という薬商人家との養子縁組の話をもちこんでくる。しかし彼は独立独歩の人で、「たとえ養子となり数十万の財産を一時に掌握するより困苦精励の結果、それより得た1銭の金こそ嬉しくもまた望むところ」として、「幾万の資金を掌中に握り営業する愉快さ」を捨てる気にはならず、これを断る。

その後、エジプトの取引業者「アンドレー商会」が約定荷物を積み出さないというトラブルが起こり、この問題の解決と新しい取引先を探すことも兼ねて会社からの命令でエジプトに向かうことになる。2週間の船旅でカイロに着いた彼はわずか10日間でこれを片づけて、エジプト旅行も楽しむ。しかし24才の商才・喜多の目に留まったのはピラミッドだけではなく、「エジプト・シガレット」だった。これは日本に持ち込めば13(100)でも上流階級には売れると見て、その場で150(60万円)を出して、試しに100本入り60箱を買う。しかもすべての巻きタバコにM. Kitaの文字まで印刷してもらう。これは後に十数年に渡って「日本綿花」がエジプトに原料の葉タバコを輸出する関係にまで発展するきっかけにもなったようだ。もちろんピラミッドに圧倒される一方で、エジプト人の暮らしもよく観察している。ナイル川が氾濫して肥沃な泥土が労せずしてもたらしてくれる穀類、綿花、砂糖、その他の果実に恵まれすぎて、国民は遊興に耽り、歌舞、賭博にうつつをぬかし、亡国の末路が心配される中で、イスラムの新月旗はその状態を回復させるのに何の用をなしていないと厳しい。何か今の混乱するエジプトの源流を感じさせる。

このころになると彼は英語も随分達者になっていて、以下は英字新聞に頼まれて寄稿した「エジプト紀行」の一節。カイロでトルコ風呂に入った時の様子が詳細に書かれている。

Awakening very early this morning, the writer went out to take a Turkish bath. The bath house I went to is said to be the best in the city under a European management and is richly decorated with bricks and stone edifices. At a payment of five piastre tariff, one native waiter took me to a room in which I changed the dress; then I was lying on a table in a vapor room for about 30 minutes. Underneath and inside of the wall of this room, many steam pipes pass, keeping up the heat temperature over ninety degree Celsius. It was very hard for me to lay half an hour there. In an adjoining room the natives with soap and sponge, rub throughout the body, and I wondered how such enormous amount of dirt came out. After that process finished, to wash with fresh hot or cold water, or to swim in a small pond, or to be rubbed by shampooers makes visitors very pleasant and delightful. Egyptian way of shampooing is just like Japanese style.

その後本社勤務を命じられた彼が与えられた仕事は、事務処理と翻訳で彼は失望する。営業を望んで直訴した彼は、たまたま彼を認めてくれる田中常務が社長になった幸運にも恵まれて、24才で営業の支配人代理に抜擢され、27才で支配人になる。

彼自身意外な抜擢に、「あまり分に過ぎ失敗せぬかと案じながら」の受諾ではあった。若輩の就任に対し、彼が心配したのは彼が飛び越えてきた先輩3氏の操縦策だったが、老年者に対する待遇を充分配慮するなどの一方で、有能な若者Y氏をニューヨーク出張員に任命し、自分の女房役としてアメリカとの綿取引をテコ入れした。

インドでもムンバイのガダム商会との問題が残っていて、彼以外に解決できる人間がいないので、4度目の渡印に出て、それを何とか有利にまとめる。あるときインド人紡績社長と話すことがあり、彼が言うには、

「日本は資本に乏しい国である。借金は増えた。国防には備えなければならぬ。一等国の体面を保つのは難しい。これまでの日本は欧米のコピーであった。しかし今後の経営については心配なところがある。英国は世界の一等国である。これは背後に大きなコロニーを持っているからである。その他フランス、ロシア、ドイツ、イタリア等皆かなり領地を持っている。ほとんど世界の取れるだけの領地を欧米文明国が取ってしまったとき日本は覚醒した。日本はこれからどこを取って発展しようとするのか」という疑問は彼の心に残った。当時綿花を買い付けるだけでなく、日本で作られた綿糸を輸出する計画が持ち上がり、重役会議で彼はインドからの帰途、サイゴン、香港から、漢口へ入って中国の販売事情を視察することが決定されていた。しかし彼がムンバイを出る時点になって「会社の都合で一路直行帰国せよ」との電報が入り、販路拡張に熱心な彼は出鼻をくじかれる。彼の出世をよく思わぬ一派の仕業とみて、彼は「この時世の中で会社百年の策をなすには、この朝令暮改は認められない」と反論の電報を打ち、会社からは反論がなかったので、既定方針通り中国市場を開拓して帰国する。それがきっかけて中国(支那)との関係が発展し、会社の飛躍にもつながる。案の定、帰国命令は特に理由がなかった。

日本と諸外国との取引だけでなく、外国相互間の貿易を仲介する方向にも発展させた。英国ガダム商会との縁がまだ続いていたので、最初にその関係を利用して漢口綿花をイギリス市場に紹介。その後インド綿花・綿糸を中国へ、インド綿やアメリカ綿をヨーロッパへ、アフリカ綿のインド輸出から、ラングーン米やインド・ジュートを欧州や中国へという具合に現代の商社に劣らない多方面の取引を展開した。そのため中国は勿論、ドイツ・ブレーメン市に「メンカ・ゲゼルシャフト」の別会社を組織したり、リバプール、ロンドン、ロッテルダム、ハンブルグ、ミラノなどにも駐在員を置いたり、代理店を設けて世界にネットワークを張った。

特に中国に関しては、三井物産が有力な中国人を動かして成功したことに刺激を受けて、彼自身も度々中国の商況視察に出かけ、広く接触して知己を求め、中国各地に多数の交友を得た。そして特に長江方面に力を注ぐことにして上海・漢口に次々に繰綿工場、紡績工場、豆粕工場、販売分店などかなりの投資をした。そして順調に滑り出していた矢先に上海支店でとんでもないことが起る。明治411908)年夏、上海当局者が、5000俵もの綿花の無為替荷物を売却する形で不当に得た資金を使って銀塊投資を行い、銀相場が崩落して78万円(今の100億円)の大損失を作ったのだ。

一時は彼の関与も疑われたが、社長自ら現地に乗り込み精査の結果、無関係と分かる。しかし支配人としての責任を痛感し、辞表を提出。予期に反して、重役会議では辞意は許可されず、逆にこの際社運挽回のため一肌脱げとの決議を受ける。感激した彼は、会社更生に全力を注ぐ。その年の前期繰越金の他に会社の積立金37万円を繰り入れても尚40万の損失を次期に繰り越すことになり、資本金が125万の会社に3割の欠損繰越で、会社としても致命的な痛手であった。しかし努力につぐ努力、「天は自ら助くる者を助く」で、次年度末には何とか44万近い利益をあげ、1年前の欠損繰越金を引いても4(今の5億円)近い純利益を出す鮮やかさを見せた。彼は言う、「大惨事以後一滴の酒も飲まず。酒をやめたら痩せるかと思ったら、今でもダルマだ。人は言う。夏以来周囲から攻撃されながら平然(?)とは感心だとさ!今日までは無難に経過したが、顧みればよくも越せたり針の山だ。」

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身体は動き回っているのに「心」は死んでる
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映画「華氏911」とその周辺
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そのとき「私」は? (2001.9.18)
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Etiquette in Japan (Simon Flinn1974)
外人から見た日本の奇異な習慣をユーモアを込めて論じる。英文。

言霊(コトダマ)信仰の不思議
(井沢元彦より)
小論文の問題だが面白い内容

大岡家系図
TAMT